まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

22歳④

TITLE: どくしょしょしょ

CATEGORY: 読書

DATE: 07/01/2012 23:13:02 

(下書きをあげます、実はこのブログ、公開してない記事がたくさんあるのです!)

久しぶりにブログを更新しようと思うのです。
久しぶりというほどかどうかはわからないのですが、気持ちの上では、なんだか久しぶりなのです。

さて、近頃、そう、だいたい昨日の昼辺りから、なにかが一段落ついたのです。
それは、ゆるゆると散歩をしているときでありました。
いままで自転車などでしゃむに走り回っていた所沢の街並みが、たまにはと歩いてみると、まぁ美しい家々、緑緑、山々、ねこねこ、中学生中学生、駄菓子屋、くちなわ、昆虫、ばばあ、じじいめらがおりまして、動いてまして、ああら、美しいところざわね、と新たな気持ち、ありがとう世界。

このところ締切とか寿命のことで、なにかと焦っていて、気が急いて、他人や物事に対する態度、言行、挙動がひたすらに荒々しかったのだけれど、おかげさまでだいぶ落ち着きました。




で、
最近はもうね、
いつもどおり、
楽しくなくてね、
人生、

で、
お友達と、いいパスタ食べに行く前に、ブックオフで、チェルフィッチュの「ゾウガメのソニックライフ」入ってる新潮(雑誌)見つけて。100円で。すぐ買いました。

だいたいいつも、それっぽい本は、シックみたいに(「うたかたの日々」に出てくるクソ蒐集家鬼畜男)、ヨダレ垂らして買いつつ、買ったらば、もう満足な僕だけど、流石にすっげぇ短いし、チェルフィッチュ。読みました。読めました。文盲に近いのに僕でも読めた、すごいぞチェルチェル、ありがとう!

ら、


最近、というかしばらく思っていることにとっても近いような、そこにちょっとした安らぎやら、前向きな方に、思考を導いてくれるような、いい内容でした。芝居なのに、読んで、だぜ、劇場で観たらもっともっ良かったろうか。

夢やら、カップルやら、モチーフは様々ありーの、基本的には、ドラマとか余計な調理法はしてなくて、
岡田利規がやんわりと考えたり、考えたフリしていることを、ヨダレのごとく、たらーりたらーり、疲れた体を、ヨダレの海にたゆたわせて、夢と現実の狭間を、気持ちよく、沈んだり浮かんだり、
みたいなイメージ、うそ、今テキトーに打ってる。

なんかね、セリフを引用すれば、その面白かったところとか、感心したところを一端なりとも伝えられる気がするんだけど、それがいいことか悪いことか迷うのでしません。

引用するなら全部する、ぐらいの勢いでしないときつい気がするのです。
他の記事では、今まで散々いろいろ引用しといて、チェルフィッチュにだけは、甘いのかよ、って感じだけど、そう、甘いです、ちょっと怖いし。なんか感覚があります、気分です、気分は大事にしようと思います。

すごく言葉足らずなので、流石にすこし補足すると、
僕がこれを読んで(戯曲を読んで、ってすごい違和感あるけど、やってなんぼのものだから)、すこし解消された悩みっていうのは、

生きることへの前向きさなのでした。
前向きタイモン! 

や、前向きではないですね、はい、
そこまでとても行きません、

「生きるの、基本、楽しくないなぁ、」

「なんだか楽しいことが年々減って、」

「楽しいことがありそうな、
予感、はあっても、
楽しいこと、は、なかなか来ないもんな。」

「この先、どこへ行っても、どこに住んでも、何をやっても、こうなのかな、」

「こんな調子で年をとって、なう、で年とって、今はどんどん過去になって、気づいたら、取り返しのつかない(まぁ、取り返したいほど素晴らしいものがあるのか、実感したことはあまりないけど)ところまで、人生が進んで、終わって、まぁあんま終わりまで考えないけど」

「とにかく、今は楽しくないなぁ、今が楽しくない」

みたいな日常的な憂鬱から、次のステップへ進めない? 次のステップはあるのか? ないのか?
みたいな、世界中の何人ぐらいが似たようなことを悩んでいるのか? みんなか? 考えない人もいるのか?

ことを、
悩んでいるかわからないけど、考えている人は確かにいて、
共感を信じられて、

なにかそれより大きなものと、日常の狭間でひょっこり繋がれる瞬間があるんじゃないかと、生きてる素晴らしさをより、鮮やかに実感できることもあるんじゃないかと、

 

〜〜〜

若い。

 

今の俺は、生きてる素晴らしさを日々実感している、

 

かというと、相変わらず、急な消失願望(しにたいとかじゃなくて、きえたい)みたいなものを胸に抱いたりもするけど、

基本、やりたいことがあって、時間が足りない。という感じ。

自分のことを幸福だと思う。

 

日常的な鬱は消えてないけど、対抗する手段は見つけた。

それは演劇だし、ブログだし、音楽だ。

友人とか家族にあまり強くそれを感じられないのが、僕の弱い所、感覚の薄い所だけど、それだって、自覚してないだけで、強く支えられているだろう。それがなきゃきっと、虚無だ。なにもできない。演劇も音楽もそういったことについて綴るブログも他者がいないと前提(そのためにある)が存在しないため、成り立たない。