まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

24歳⑧

TITLE: 銭湯は偉大であるゆえ

DATE: 02/23/2015 00:32:19 読書、

読書についての本を読む。
もっと本を読むために。もっと楽しく暮らすために。
完全に趣味として。

完全に趣味として腹をくくって、本を読んだり、いっぱい映画見たりしたいものだ。
適当に惰性でするのは、なんだか煮え切らなくて楽しくない。
一方怠けてしまう。怠けてしまうのは、たぶん、色んなものを読んだりして想像した推測だけれど、
ツボにハマっていないからだ。
もちろん怠けている状態はかわいらしく、すばらしく、健康的で人間的な態度だ。
しかし怠けていない状態もなかなか可愛い、それにけなげだ。
そんな状態(なまけてない)になったことはないから、いわば、レアだ、レアモンスターは捕まえなければならない。もう12年ほどポケモンはしていないけれど。

で、そも、大学の長期休みが延びてきた今、俺はわりと、自分を意図する方向の状態に、誘導、少しでもその濃度を高めている。
俺は少しずつ、よくなっているような錯覚を覚えている。
寺山修司は今しかないと言った、今の自分が一番素敵でないといけないから。
過去の自分は快感を得ることも出来ないし、本当に反省したり、苦しんだりも出来ないから。

今日俺はおフロでボルヘスを読んだ。短編集「伝奇集」から「バベルの図書館」という短いお話を。
恐るべき濃度だった。
俺は初めの2ページでびびり、10ページ程ではまり、震え、無性にお風呂の鏡が怖くなり(※怪談ではありません、階段は非常に出てきます、もはやギャグというか、奇遇ですね。)

残り2ページばかり残す所で、かなり読んだぞ、という感じがしたから、辞めた。
次また頭がリセットしてから続きを読みたいと思って、今日はうまうまと就寝しようという腹なのです。
このように、最近の俺は、かなり読書がうまくなってきたと思います。

「必読書150」を読む。興味のある人はAmazonで調べたり、図書館で手に取ってめくって欲しい。
(お金のある人は買ってもいいと思うけれど)
昔むかし「文学賞メッタぎり」というシリーズを知って、はまって、ばまりこんで、ファイナル以外全部持っているし、ファイナルもブックオフで立ち読みしたのだけれど(でも俺は立ち読む、つーか、近頃はブックオフに入った時点で8割なんか買っているからね、で、この一週間で4回ほど行っている、しぬ。)

そこで、だけじゃないのだけれど、読んだ本、知った作家が、いっぱいいて、本当に嬉しい。
いっぽうで「必読書150」はアカデミズムの側面もあり、ベクトルが大分違う。
で、私はどっちのベクトルも憧れる、興味がある。
と、いまの、現在の所は思っている、だから読みたい。
「必読書150」わりと、むずっぽい、タイトルも多いけど、全部読んでもいいのだ。
まぁ、実際は興味のあるものを(家にあるものから)順に当たっていって、ダメだったら次、とか、まぁ10年20年単位ぐらいで、だらだらやっていけばいいのだけの話だけど。(なぜって、完全に趣味だからね、趣味を自分に与えられるっていうことは幸運だ。)
まぁ、読んでいるものもわりとあるし。
わりとが、けっこう少ないのだが。

で、で、で、だ、すげー、レベルのアレな話をするのだけれど、
やっぱり、知らないことはしりたい。
色んなことを知った、見てきた、ということは、生きていく上で、楽しく生きる才能のない、楽しい思いをいっぱいするための才能の薄そうな私にとって、けっこうありな方法だと思う。

もちろん、読んだ本は全て忘れてしまう、くらいの気持ちでいるし、しょうがない、それはなまけてゲームをしてしまうぐらいしょうがないことなのだけれど、ゲームだって素晴らしいじゃない、って、感じ。
忘れる、という事象も読書にまつわる、興味深いテーマだと思う。

それに、本を読みすぎたら、バカになるって説も、いっぱいある、「読んでいない本について堂々と語る」方法でも、現物を読んでないが故に、多様な意見を出せる学生の例や、(先生の話を聞いているだけで、かなり、考えられている)むしろ、違う文化を持ち、本についても、その文脈の背景にも知識が無いがゆえに、「ハムレット」の重大な問題は、クローディアスと父ハムレットの母親が同じかどうか、という知恵を出してくれたアフリカの部族の長老の意見が、ハムレット研究のどの意見よりもラディカルで急進的かもしれない、みたいな、まぁ、知っていることをくちゃくちゃこねてもさぁ、みたいな。君の意見まわるいね、みたいな、
ショーペンハウエルも「読書について」で、(これもブックオフで立ち読みした、5分も読んでないけど、いい本だと思った、つーか、勉強なった)本読み過ぎるとバカになる説、言ってて、なぜかっていうと、自分の頭で考えなくなるからです。

これ、100パー正しい。し、100パー間違っている。
正解は人によるだと思う、けど、おれに関してはかなり正しいと思う。
本を読んで、なのか、なにか、知っているつもりになっているせいで、めっちゃ頭が固くなっているような気がするし、本とか関係なく、魅力的だな、って思う人の意見とかは、わりと本だけじゃない経験的なことから出てたり、直感的な(それまでのそいつの人生にあった、脳の形に沿ったあれこれから導きだされた)とこだったりするじゃん? 
おれ、あんまり、そういうの、無い気がして、まぁ、あるかもしれんけど、こーやって卑屈になるのも、いつもの思考て私的な型だけど、まーちょっと見つめてみたいよね、どう付き合うか、本と。

知識は道具だという。それ単品で、すげー自慢(まぁ、半端なかったら出来る気もするけど)
つーか、そもそも自慢できるのは、だいたい知識じゃなくて、なにか行いだと思うし、
その行う、ための、一つのツールで、すごく魅力的にそれを使えている人もいるツールなのだけれど。

かといって、これを割と冷たく捉える、道具を、かうぞー、みたいな感じじゃなくて、
どう使ったら面白いか、っていう、良い型みたいな、回路、みたいなものを、知りたいよね。
だから、そういう本を読んでもいいのだけれど、たぶん、本当に良くなったかは、実践で分かるんだろうな、
そして何回も失敗して、まぁ、失敗し続けながら、エラーするためにトライしながら、なんだろうな。
ブログも一つのトライではあるのだが。
力、入ってねぇなぁ。

東大生とかやっぱりうらやましいと思う、
これはもちろんフィクションの東大生、というキャラだ。
なぜなら、東大生は東大生である前に人間で、
ある種の能力をはかる試験を、なんらかの事情で突破した人間だ。
そして俺は、そういう、東大の試験を突破した人間(東大生)
について全く詳しくない、
だから、実際の東大生のことは、(俺がもし東大に入って、おれはこうだった、っていうぐらいしかわかる方法は思いつかない、けど、そんなことは、あんまり興味ないなぁ)わかんない、し、めんどくさいから、例として、キャラの東大生(イメージ)だけど、

やっぱり本とか、たくさん読んでいるんじゃないか、
やっぱり数学とかできるんじゃないか?

本当の所は知らないけれど、うらやましいのは、(わたしの想像力が足りないから)
学力があるってことじゃないか。
色んなことを知っていたら、世界の見え方が違うはずだ。
(知らなくても違うはずだ)
知らなさも想像できれば、二つの世界が、いっぱいな世界が見える、それって、すごいじゃん。
理系な世界、
細胞について想像しながら眠る毎日、
新しいMacの商品のできに嫌みをいう夕べ
国会中継に突っ込む日々、
すげー。

一度しかない人生だ、って言う所がキーですよね。
色んなこと知りたい。
そして私は寝る。

今日は早く寝なきゃと思って、永くお風呂にはいったのだけれど、
本当は昼、今日は銭湯に行こうかな、と考えていた。
でも、ケチってしまった。
お風呂でつくづく、銭湯とは体の状態やおそらく、出たときの状態がまるで異なるんだろうなぁ、と思って、

「お風呂と銭湯はまるで別物なのだ」とつよくつよくおもった。

あと町田康の「人間小唄」読んだ。モンキービジネスも読んだ。あと、池澤夏樹の「世界文学を読む」の「アンナカレーニナ」を読んだ。(トルストイドストエフスキーと無意識に比べられて(大体の人がドストエフスキーのが面白いと思っていて)可哀想だと思ったけど、よく考えたらどうでもいいうえに、名前すら残ってない人とか、ツルゲーネフとか、チェーホフはどうなんだって話しだし、比べることも、あんまり意味ないなぁ、みたいなね、ねなきゃ。)

 

〜〜〜〜

例の如く散らかっている記事だ。

こちらの追記では上記を読んで気になった

 

「趣味としての読書」の「趣味として」ってなに?

 

ということについて書く。