まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

24歳⑥

TITLE: 喋ることも書くことも、かなり難しいことだと思う。

DATE: 02/08/2015 21:53:05

 

私はどうでもいいことを永延と喋り続ける。
それは脳がそういう気の散りやすい、落ち着きのない形をしているからだと思う。
でもいくら脳がいつもイライラしてて、独楽鼠みたいに思考を散らかしているからといって、それをそのまま、お口から垂れ流す必要はないはずだ。人間なら。

人間、頭に浮かんだことをそのまま喋ると、やばい。
でもそれに似たことをなぜかしてしまう私は、やばい。

脳の形に善悪はないけれど、そういうわたしの行動の不利益を受けるのはわたしだ。なんかそれって超悲しい。

つぎつぎと興味の対象が動く。
一所に落ち着かない。

それはあらゆるレベルで言えることで、会話以外でも、
将来のビジョンを一所に定めることができないこと、
いらないことばかりして、そういうビジョンに沿って行動できないこと、
なんてのは、わりと致命的に悲しい。

他の人だって脳はいつでもぐるんぐるん活発に動き回っているはずだけど、いらないことはきちんと省くという機能が備わっているのだ、たぶん。

そこで改めて思ったのだが、
この、文章を書くというのは一つの対処法かもしれない。

書くということは削ることだ。
よい文章を書くためには削ることが不可欠。構成もあった方がいい。
要点を定めること、できれば明確でクリアな要点を、
それを過不足なく伝えること、
その上であっていい範囲の逸脱、
頭の使いどころはいくらでもある。使いようも。

ところが私の場合、書いてるうちに要点を見失ったり、それどころか近ごろは要点自体がないまま文字数のみが進行していたりする。ふと浮かんだどうでもいいことは次々と無検閲で挟み込み、結句おんなしドツボにはまって、ネズミの回転運動みたいな、いつものー、チン! になってしまい、おいしくない無内容がまた一つ誕生する。お好みでそのあとに言い訳(何に対するものかも気まぐれ)が付け足されたり、どーでもいいよ、もう! こんなの飽きたよ!

かように割と致命的な疾患を抱えている私の文章。つーか私? 危篤?
(言語能力の集中治療室とかあればいいのにね)

しかしそれはそれでも、話すよりは直し易いのでは? と思う。
書いた端から、
あるいは中座し、コーヒー片手に見直してみることで、
他者の視点を持ちやすい、文字に頼れば、少しずつでも進歩していけそうな気がしないでもない。

文体だってもっと色々ある。
時と場合によって「容量」「用法」を変えられるのが大人であり、知的な人間の在り方だろう。あまり知的じゃない方の人間も、人間ならば多少知的なはずだ、永延と車を回すネズミより。

喋るときもほぼ同じ感じだろう。
頭を使うのだ。ゆっくりでもいいから。回し車に行くな。鼠じゃないなら。

そういう能力も身につけた上で、
いつか喋り尽くし、散らかし回ることが、なにかしらいい影響を与えるシチュエーションに出会えるかもしれない。そのときはしめた、とばかりに喋り倒せ。しかし冷静に考えて、きっとそんなに多い機会ではない。話すときは、とにかく、周りを見みるがいい。きっと書くときに比べて、見ることも、聞くこともより大事だろうから。

まずは書こう。
日記よりもう少し表現の改善を意識できるブログは、そういう意味で有り難いはずだ。
頭を使おう。もちろん喋るときもそうなんだが、がー。

 

〜〜〜〜

前の記事に続いて、ブログを通して書くことと向き合うことで成長したい、的な結論がついている。このような「結論つけ癖」は昔からあって、善し悪しだと思う。

台本に関しても昔友人から「おおしまくんはまとめたがるよね」という有意義なアドヴァイスを頂いた。

ものすごくクリアで新鮮な結論とかならいいけど、むしろ、いかにもとってつけたような、誰でも5秒で思いついては捨てるような凡論であることが多い。

落語みたいに下げ(オチ)をつけることが様式美なわけでもないし、人生は、作品は、文章は。

なのでとってつけるような結論は入らないと思う。

結論を出すことが必要な文章以外は。

 

と、また書きたいところから書いたが、この文章で結論にいたるまでに出てきた「思いついたことを、検閲せず、とりとめなく喋りすぎてしまう」「頭を使わず、だらだら喋ってしまう」ということに関しては当時切実に悩んでいたことが思い出されて興味深い。

学生時代もそうだが、わけても一番辛かったのは社会人一年目、新卒で入った会社時代だ。パワハラ気味な上司(当時もそう思っていたし、今でもそう思うけど、その人はコミニュケーション能力に問題があった)に「要点だけを喋れ」「考えてわからないことだけ聞け」という正論を頂き、

ついには「君は文章だととてもわかり易いのに、喋ると何を言っているのかわからないから、これから質問や相談はまず文章にまとめて送ってくれ」という指示をくれた。

 

正論だと思ったので悩んだ。なんで俺はこうなのかと思った。

おれはADHDだ、と上司に言ったら、病院にいくように言われた。

(花粉症で鼻水が止まらなかったときも病院にいけと言われた)

それは入社3日目だった。上司は詐欺だと思ったに違いない。だって面接の時はそんなこといわなかったし。そうは見えなかっただろうから(だから採用したと思う。そういう人だ。)

 

おれは病院に行けば頭が落ち着く薬を貰えるのだろうなぁと思ったが、一度たりとも行きたいと思わなかった。おれは卑屈であったが、自己愛が強かった。件の上司には「ネガティヴなのにプライドが高い」「きみ、自己評価高いよね?」などと言われた。

その通りだ。おれはおれの個性が好きだからそれを変えたいと思わなかった。

 

 

あるとき、演劇の制作をする会社で働いている後輩が、当日制作を募集していた。

就活をして、就職して、お金も無くて、演劇からずっと離れていたから見たかった。

応募した。お金はもらえないが、タダで見れる。

前から見ていた劇団の、ちょうど見たい劇だった。

見て、終わって、パンフを片付けているとき、上司に病院に行けって言われた話をした。

 

「え、それってパワハラですよ。」

と後輩は言った。

 

ピザパーティに参加した。仕事おわりに。学生時代の友人と会うのはひさしぶりだからウキウキしていた。10時には間に合うと連絡して、練馬まで電車で行った。

 

上司の話をしたような気がするが、他の人が何て言ってたかは覚えていない。

だって、どうでもいいことだし。社会には色んなクソ野郎がいて、クソを垂れている。

そんなクソ野郎はクソであること自体が可哀想でもあるよね。というような話はたぶんしていない。俺は勝手に冷蔵庫を開けたりして、パーティ会場の家主を困らせた。

落ち着きが無く正しくない迷惑な野郎であることが楽しかった。

終電間際に帰った。皆でわらわらと駅まで向かった。

 

 

高校以来の友人とあった、もちろん仕事の話はしない。

ただ、そのときおれの一人称が一時的に「わたし」になっていた。

社会化の途上で、塩梅というものがわかってなかったのだ。

 

「なにそれ?」と言われた。

 

喋っているうちに自分の話が次々と飛ぶことに気がついた。

社会化途中のわたしは詫びた「自分がいかにとりとめなく話しているか」について。

すると友達は

「え、おおしまのはなし飛びまくるところ、ぼくけっこう好きなんやけど」

と言われた。

いわれた。

 

会社は3ヶ月で辞めた。糞野郎が止めようとしてきた。面白いことに。

「わたしのことは好きにならなくていい、仕事のことは嫌いにならないでくれ」

とか言ってた。そもそも仕事は嫌いじゃなかった。嫌いじゃなかったが、辞めたかった。上手く喋れなかったし、理屈も立ってなかったし、まとまってなかったけど。

まぁ、結論だけはあって、辞めた。

 

その後、2週間ほどだらだらして、アルバイトに応募して、3ヶ月程働いて、今のアルバイト先に応募した。

 

アルバイト先は、一つ前のも、(もちろん)今のところも、はじめの会社よりずっといい。

喋るのはずっと、今でもヘタクソだが、俺は愛されていると思うし、俺は愛している。これは結論ではない。