まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

21歳②⑦

TITLE: むやみやたらに旅に出る前に

CATEGORY: 思ったこと

DATE: 12/30/2011 11:04:13

 

年末は贅沢に時間がつかえている。
徐々に引きこもりがいい効果を現してきた。移動が多かったときより、心身ともに、明るい。クリア、ポジティブ。
あと、一年ぐらい引きこもっていたいなぁ。贅沢だから無理だけど。

起きて、「エクスポ」を読み返す。
対談というものは、戯曲のように読めるから面白い。

読書たって、実体験には劣るんじゃないか、もしくは、読んでも、実感が伴わなければ、ほぼ無意味じゃないか、って、ずっと考えてきたけど、やっぱりそうだわ、
本って、結構エッセンス的なものが多くて、
だから、あぁ、この作家はいいな、よしパクろう、なんつっても、
書かれている文字は「結果」として読めるけど、なぜそれを書いたか「過程」は、そのときその瞬間の、書き手の脳内にしかない、ので読めない。結果より過程のほうが面白かったりする。
もし結果から、過程まで読める読み手がいたらすごいと思う。

真似をするなら、過程までマネできたらいい。シュミレートできたらいい。でもそれは難しい。

十年越しにガンと付き合い、肺の一部を切除し、右足の感覚を失い、「両足がなくなってもいいから、僕はあと二十年、三十年、生きたい。書きたいことがまだいっぱいある」と、言って、そのまま死んだ伊藤計劃の書きたいこと、は、なかなか真似できない。

真似しようとしても、土台が違う。土台から入れ替えないといけない。
土台というものは、「自分」であるから、なかなかに入れ替えられないと思う。

芝居とか、小説やらで、恋人が病気で死ぬのが悲しい、なんて言われても、たぶん、書き手の中にある過程しだいで、まったく違ったものになる。「タイヨウの歌」が面白いか知らんけど、「セカチュウ」は小説はひどいけど、やっぱり夏目雅子の死は悲しい。どう考えても、清志郎には生きてほしかった。

表現って、無意識を使うとか、偶然に頼る、とか、いろいろ手段はあるでしょうが、基本的には自分から出るものだから、その出し方が技術なんでしょが、技術は、いろいろあっても、やっぱり自分、が、大事な気が、

いい作品と、同じような物を作る、にしても、たまたま自分の経験とか、考えた過程で、同じところに辿り着いたものが面白いんじゃないかと思う。

ブルーハーツは知らないけど、やりたいことをやってくとブルーハーツみたいになった、みたいな。ヒロトが言ってた「セックスピストルズみたいになりたかったから、誰の真似もしなかった」じゃないけど。

だから、どんな非効率なやり方、とか言われても、自分のなんとなくいいんじゃないか、みたいな、もうちょっと、こういう風にやってみたい、みたいなのは大事にしたほうがいいし、信じていいんじゃないか。非効率ってこと自体が、めちゃくちゃ素晴らしいときが多々あると思う。効率よくやったら、早めに終わって、次々いけるかもしれない、でも、次々いけないときに、色々面白さが転がっている気がする。

本の中には、ないもの、効率化される過程の上で、そぎ落とされたものってたくさんあるから、そういうのを埋めれると面白い。埋め方も自分なり、ではなくて、作者の過程に沿ったものだったら、すごいけど、そんなことできるやついるんか? って感じだから、自分なりに埋めるしかないんだけど、

書を捨てよ、町へ出よう、が素晴らしいのは、町へ出たとき、ある、風とか、糞とか、臭さとか、痛さとか、大概、そんなに大したものがあるわけじゃなくて、まぁ、フツーにいつもと同じなんだけど、そういういつもと同じもの、あんまり面白さが塊として詰まってないもの、が、過程、ていうか、フツーの人生。怪我したり、風邪ひいたり、声が出なかったり、さびしかったり、が、そのまま物を書く過程にもなるんじゃないかと思う。

ところで、ところで、
本を読むときも、その本を読むときの体調、眠さ、シュチエーション、年齢、で、全然違う体験になる。それを踏まえて、ぽつぽつ、いろいろ考えてながら読むと(その考えも毎回違うんだけど)同じ本を何度も読むのは楽しい。
いくら読んでも何も浮かばない本を10冊読むより、そういう本を繰り返し読むのが、幸福だ。

自分って、やっぱり瞬間瞬間違っている、今の段階ではそう思う、の繰り返し。それでも持続するものはあるような気がして、それがなんなのか、歯の痛さとか、そういうのだったり、いや、そういうことでもないだろう、とか思ったり、

長く続く問題とは、どうやって付き合えばいいのか、
続くもの、逃れられないものとの関係は大事にしたい、

逆に、夜の学校を駆け抜けるときの恐怖だとか、まぁいわゆる恋だとか、悲しみとか、このはかないものに愛おしさを感じたり、感傷したり、薄れていったり、

その感覚を、受けとめられる時間と、そのものの大事さは比例するんだろうか? 関係ないか?
とかとか、考えたり。

ところで、ところで、
最近晩年みたいな生活してる。
社会へのデビュー前と、リタイア後ってことで、若者と老人は似ていると思うんだけど、でもワタシはいまどっちかっというと老人みたいな生活をしている、社会を知らない老人。ビジョンがないっていうか、その場その場、楽しいけれど、どこにもいかない、いけない、どうしようもない、みたいな、
老人には(ボケてない限り)なんやかんやの経験があるから、もっと、いろいろ考えてたりするのかなぁ、

また、私は健康だから(同世代の中ではぶっちぎりで不健康な自信があるけど)苦痛も少ないし、まぁ、若者だし、今すごく人生のいいとこどりしてる自覚はあって、それがいつまで続くのか、や、決して続かないだろう、っていうことはわかってるけど、でも、2秒後くらいは流石に続いているだろうってことで、いま、けっこう明るい。

引きこもりは楽しい、ときどき淋しくなるけど、この淋しさはなんかちょっと嬉しい。淋しさがあるってことは嬉しい。

〜〜〜

社会にデビューしたわたしは、あまり引篭りしていたこの時のことは羨ましく思い出さない。でも、夜の学校の廊下を駆け抜けたときの恐怖に関しては、、、