まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

20歳②⑨

TITLE: アンネ・フランクは想像以上の向上心を持っていた。

DATE: 04/14/2011 22:06:42

BODY: 『アンネの日記』を読んだ。新品で買ったので、たぶん一番新しい増補改訂版だ。

アンネ・フランクの日記は、出版されるまでに色々な経緯があって、一番初めの版は、アンネの父オットー・フランクにより、編集され、刊行された。

その版では、アンネの性に対するあけっぴろげな記述や、母親や、同じ「隠れ家」に潜んでいた同居人の悪口はカットされていた。

1980年にオットーは死んだ。死後、アンネ直筆の原稿は、オランダの研究所に寄贈された。それをもとに、文法上の誤りや、わかりにくいドイツ語の言い回しなどを改訂しただけの『アンネの日記』が刊行された。

何日かかけてよんだため、大変そのときの気分によって、印象の変わる読書だった。

日記なので、アンネ・フランクの気分によって、内容はころころ変わる。
僕自身、虫の居所が悪かったり、よかったりするので、「アンネ、調子に乗るな」というときもあれば、「いいぞ! もっといえ!」のときもある。

全体的にいえば、アンネはずぅーっと調子こいてる。かなりこいてる。
「あたし、もてるのよ」と「あたし、あかるいのよ」と「みんな、馬鹿すぎるわ」
だいたいその3つが8割を占めている。

次の文は、ゲシュタポに捕まる年、アンネ・フランク15歳の日記。

 「ペーターが将来ぼくは犯罪者になるだろう、とか、賭博に身を持ち崩すだろう、などと言うのを聞くたびに不安に心臓をしめつけれられるような気がします。むろん冗談のつもりでしょうけど、わたしには彼が、自分の性格の弱さを恐れているように思えてなりません。ペーターばかりかマルゴー(アンネの姉)からも、たびたびこういう台詞を聞かされます。「そうよ、もしもあんたくらい強い性格で、あんたくらい元気があったら、もしもどんなときも自分の望みをつらぬきとおせたら、もしもそれくらいの不屈のエネルギーがあったなら、そうすればわたしだって……!」
 わたしは迷います。決して他人から影響されないというのは、はたしてほんとにいい性質なんでしょうか。いつも性急に自分の良心をつらぬきとおそうとするのは、ほんとにいいことなんでしょうか。
 ごく正直にいうと「自分は弱い性格だ」といいながら、それで平然としていられるのって、わたしにはとても考えられません。それがわかってるなら、なぜ闘おうとしないんでしょう? なぜその性格を鍛えなおそうとしないんでしょう? 答えはこうです。「このままでいるほうがずっと楽だから!」この答えには、少々失望せざるをえません。楽だから? ということは、怠惰な、虚偽に満ちた生涯のほうが、楽な生きかたとでもいうんでしょうか。まさか、そんなことがあるはずはありません。そんなことがあってはいけません。人間がそんなにたやすく誘惑されるだなんて、安易さに……そして金銭にも。」

また別の日記。

「心の奥底では、若者はつねに老人よりも深い孤独に堪えている」なにかの本にこう書かれているのを読んでから、わたしはずっとこれを忘れられずにきましたし、これが真理だということも発見しました。
では、「ここ(アンネたちの潜んでいる「隠れ家」)ではおとなたちのほうが若者よりもつらい思いをしている」というのはどうでしょう。これも真実と言えるかどうか。いいえ、言えません。ぜったいにそんなことはありません。おとなたちはすでに、何事につけても確固たる見解をつくりあげていて、行動する前にためらうことはないからです。それにひきかえわたしたち若者にとっては現在のように、あらゆる理想が打ち砕かれ、踏みにじられ、人間が最悪の面をさらけだし、真実や正義や神などを信じていいものかどうか迷っている、そんな時代にあって、自分の立場を固守し、見解をつらぬきとおすというのことは、大人の二倍も困難なことなんです。」


「前にもお話したとおり、わたしはいわば二重人格です。いっぽうは、生来のあふれるばかりの快活さと、どんなことでもおもしろがる陽気さ、活発さ、そしてなによりも、あらゆる事柄を軽く受け取る流儀、などをあらわしています。このなかには、男の子からちょっかいをかけられたり、キスされたり、抱きしめられたり、品のない冗談を言われたりしても、あまり気にかけないというようなことも含まれています。こちらの一面はいつも機会を狙っていて、なにかといえばもうひとりの、よりよい、より深みのある、より純粋なわたしを押しのけてしまいます。ぜひわかっていただきたいのは、この良い方のアンネを知るひとはひとりもなく、そのため、たいがいのひとはわたしのことを、我慢のならないでしゃばりだと思っていることです。

(中略)

 あなたには、とてもわかってもらえないでしょうけど、これまでどれだけこっちのアンネをひっこませよう、おさえつけよう、隠しておこうと苦心してきたことか、なにしろ彼女は、アンネと呼ばれる存在の、たった半分にしかあたらないんですから。でもそれはうまくいきませんし、どうしてうまくいかないか、そのわけもわかっています。
 じつはいうとわたし、普段のわたしを知るひとに、自分がべつの一面をもっていることを知られたくないんです。普段見せている一面よりも、すてきで、りっぱな一面があることを知られるのが怖いんです。その人たちから笑われはしないか、滑稽だ、センチメンタルだと思われはしないか、まじめに受け取ってもらえないんじゃないか、そんな風に恐れるからです。まじめに受け取ってもらえないのには慣れているといっても、それは”軽薄な”ほうのアンネだけのことで、”深みのある”アンネのほうは、繊細なので、それには耐えられません。じっさいにときおり良いほうのアンネを表舞台にひっぱりだすと、台詞を言う番になったとたんに、彼女はすっかり萎縮してしまい、アンネ第一号に役を譲って、わたし自身ですら気づかないうちにそっと退場してしまうのです。
そんなわけで、よいほうのアンネは人前では、けっして顔を出しません。彼女が主役を演じるのは、わたしとふたりきりのときだけです。
 
わたしは自分がどんな人間になりたいか、はっきりわきまえています。現在どんな人間かも……内側では——それもよくわかっています。でも悲しいかな、そんな風になれるのは、わたし自身にたいしてだけなんです。」


この日記の真贋については諸説あるらしい。「ちょっと出来すぎだろう」とか。

ボクは別にニセモノだろうと、内容はまったく変わらないんだから、どーでもいい。
ただ、アンネフランクは、これを書けただろうと思う。

どこかに篭もったり、潜んでいるとき、人は、とても内省的になる。
僕も体験した。
やたら読書は進むし、日記なんて、ほんとマジメにやるし、長く、ちょっといいこと書いてやろうかな、なんて気にもなる。

ほら、現にこのブログはいま長い。

あしたから授業がはじまる。人と会う。
うん、がんがん会う。めぇるあどれすもこうかんする。

アンネの出来なかったことだ。

 

〜〜〜

やはり自意識が産み出したとくに意味のない文章よりも、

対象が明確で社会的に広く共有できる文章の方が、読者としては面白い。

あれこれ考えられるし。

 

しかし一方で、書いている方は、説明をする必要があり、論理の道筋を掃除して整えた文章より、自意識に狩られて書き散らした文章の方が楽しい(と、いうのは嘘で、本当は社会的に共有できる文章も書いてて楽しい。しかし、その楽しさは、自意識が生む文章と別種のものだ)

 

読む方はその方が良かろうが、

書く方はそうじゃない方が良い

 

ということはままあり、

じつはかなり大切なことのような気がする。

 

だって、世の文章術、とか、小説家教室、とか、

脚本家〃とか、そういうのって読者にとって良いものが良い。

が基準になっているんじゃないか。

 

仕事だから仕方ないけど、

自意識に狩られて、糞を量産することがしたいなら、

心いくまですればいいよね。

ってか、おれはする。

仕事じゃないし。

 

〜〜〜

ある人にとって、考察に値しないこと、

ある人にとって、要求するクオリティを満たさないこと、

そのある人が、圧倒的多数であること、

あるいは少数であっても、蓄積を持った信頼できる人を満足させる

 

そういうことは、制作的成功(それで身を立てる、飯食う)や、芸術的成功(尊敬される、意義のある仕事を為したという満足感)を呼び込むけれど、

 

いい糞をして気分がいい。

と、それはそうと、他の仕事で稼いだ金で、うまいラーメンでも食いにいこうかな、

 

みたいな上記の成功とは無縁の、趣味(?)的な活動はあると思う。

それが、大学出て、3年間仕事をしながら、たまに演劇とかをする僕の今の実感だ。

 

趣味(?)とは、ひどく主観的なもので、価値判断をしない。

だからこそ醜悪かもしれない。

無価値かもしれないので、それについて言い訳はしない。

ただ、ある。趣味(?)という行為は。

 

みうらじゃんは、趣味の人は、話がつまらない。という。

相手がどうであろうと、自分が好きなことを話すから。

自分は好きでも何でもない(なかった)仏像やゆるキャラについて、いかに面白く話すか、ということに腐心していて、それは、たぶん、趣味というものではない、と。

 

ためになるいい話だ。