まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

21歳②⑤

TITLE: うんこみたいな芝居。でもうんこみたいな芝居っていうとちょっと面白そうだから、クソ芝居で、あぁ、あぁクソ芝居でもまだ面白そうだ、えぇーと、、、ちょっと流石に良心咎めるなぁ、ないけど、良心、まぁ、オレは嫌いな芝居。

CATEGORY: 演劇 

DATE: 12/28/2011 21:25:37

 

「登場人物の、そいつが何に重きを置いている、とか、じっさいこういう気持ちを抱えつつも、こういう行動をとってしまう、みたいなのが、けっこう納得のいく作品で、僕は好きでした。人間が人間らしい(あくまでボクの価値観で)芝居が好きなのです。」

って、ひょっとこ乱舞について書いたけど、

最近みた芝居、▲▲▲「××××」が気に入らな過ぎてヤバい。
ここで殺せよっていうとこで殺らなかったり、その癖、変なとこで、劇的な効果狙ってんのかわかんないけど、殺したり。やめたり、止めたり。

最愛の肉親を殺された登場人物が、2秒でそれを忘れたり、そういう世界ですって説明するのでいっぱいいっぱいだったり。

まぁ、とにかく、ストーリーのために登場人物が動いたり、良いように登場、退場、したりするのはヤダなぁ。
すでに見えてる一つの終りに向かって、観続けるのはつらい。

よくできてないものに悪口言うのは簡単だから、どーもよくない気がすけど、
たぶんつっこみどころ以外のところで評価されているんだろうけど、
それも含めて、ボク的には突っ込みどころがあって、つまり、合わなかったんだなぁ、
みたいな、弁解を、おためごかしを、わざわざ追記するのは面倒だ、面倒な世界だなぁ。

物語なら、よくできてる物語が好きです。
よくできてない物語、ストーリー、


因果律とかどうでもええやん、みたいな、
もっと過激に自由に、やったった方が、面白いんじゃない? となんて思うのは大体つまらないお話に遭遇したときで、

そのたび、お話はつまらん、いや、やっぱ、面白い。こんなものあったなんて、よかったよかった、さぁ、続きを観よう(読もう)なんてのの、繰り返しで、振り子みたいな感じ、もういろいろ振り子みたいな感じ。

人間ってなんでこう一瞬一瞬変わるんでしょうね?
昔からちょっと思ってたけど、あしたの自分と今の自分でだいぶ違うのに、よく一つのものなんて、かけるね、一人の人と付き合えるね(あっちも日々違っている)とか、よく思う。けっこう無理やり統合しているんじゃないか、それが自我か、わたしか、


で、最近、
なんか、物語に楽しめる率が減ってきてる気がして、ヤダなぁ、楽しめないよりかは、楽しめる人間になりたいんだが、なりたいか私は? みたいな、それも瞬間的に違ってたりして。

 

〜〜〜

このアーカイブの方針として、基本、改訂は行わないのですが、今回は伏せ字にしました。俺自身が、その芝居を観たことも、その芝居の内容もまったく覚えてない(ただ、チラシが魅力的で、それがきっかけで観に行ったことは今思い出した)ため、わざわざ実名で書くような義憤とか、動機がないから。

 

リアルタイムのときは、記事に劇団名も作品名も実名で書いていた。

そのときの俺の方針としてはそうだったのだ。

 

思うに、その原点は高校時代にある。

 

高校時代、僕は「強い顧問」のいる演劇部にいた。

この「強い」という言葉は個性の強さでもあるし、演劇部を組織する力、引率する力、カリスマ性、というものの強さでもあるし、単純に、その顧問がいた高校の演劇部は強かった。という意味の強さでもある。

 

はて、演劇部の強さ、とは?

 

演劇部にも運動部のように、県大会や全国大会というものがあって、そこでどうやって優劣を競うかというと、審査員による審査によって、1位2位3位という序列が付けられ、上の大会に進み、そこでまた序列が付けられ、より上の大会に、という甲子園的な流れがある。

 

僕のいた演劇部の顧問は、全国大会の出場経験が多く、優勝経験もあった。

独自の作風を築き、手練手管を磨き、経験を積んでいた。

僕自身、この顧問の腕によって、全国大会や四国大会や近畿大会に行けて、上演経験のみならず、そこまで勝ち抜いてきた作品、高校演劇の凄い奴をたくさん見れた。

 

その顧問が、何かの感想を言う時は、必ず欠点を言っていた。

ついには「いいところは何ですか?」とダイレクトに聞かれ、

「いいところは、言及しなかった所だ」という名言も目撃した。

 

そこで僕は、

何かの感想を言う時は、その欠点を言うことだ。

という価値観を培った気がする。

それがカッコいいし、知的だと思っていた。

(今でもたぶん思っている)

 

それもあって、高校でて、桜美林大学入って、日大入って、このころはまだまだ感想=悪口だった。

それが少しずつ軟化していったのは、大学3年くらいのころからか。

単純に、嫌われるのがイヤだったからだと思う。

件の顧問は、とても人間的魅力とユーモアセンスがあったから、悪口を言えば言うほど、その言い草が面白くて、可愛くて、もてまくる、という循環の中にいたけれど、僕にはそんなユーモアセンスも、カリスマ性も、知性も、どっしりした安定感も、なかったから、せめて、優しくいこうと、思った。

 

あと、マウントを取る、みたいな感じで、自分が上位にいることを示すために、相手を貶める、みたいなのが、本当に良くないと思った。

マウントを取る、という意識がなくても、「あれ、なんだか、悪口を言っているうちに、どんどん気持ちよくなってきたぞ」という酔いゆえに、「ほら、すごい、知的な言葉がどんどん湧いてくる、ほら、聞いて、僕の至言を、ほら、見て、この輝く僕を」的なマシンガン状態になることが僕はよくあり、恥ずかしい限りだった。

 

また、良い点をあげる、というのは、頭の体操的な意味でも、必要な気がした。

悪い所ばかり考えるというのは、脳の使い方がいつも同じ、という感じがした。

 

あと、その高校で培われた価値観の重要な所として、

「欠点の方が、言われる方にとってタメになる」ということだ。

これは正しいケースことも多い。

 

例えば、僕が芝居の稽古中に、人に見てもらい感想を欲しがる動機としては「褒められて自信をつけたい」より「自分ではわからない欠点を教えて欲しい」ということに尽きる。

 

実利的には稽古中の方が有り難いが、たとえば、本番の千秋楽(公演最終日)で「もはやどうにもならないところを欠点として指摘される」ことにもかなり意義がある。自作についての理解が深まるからだ。

 

でも、そう思えるのは、おれはそういう教えを受けて、そういうネガティブなことを聞くことがわりと平気な人種だからだ。

 

その後、大学の授業でお互いの作品を批評しあったり、感想を交換したりする中で、色んな人がいることがわかった。「褒められて自信をつける」ことで、よりよい作品が生まれることもあるだろうし、「貶されてやる気がなくなってしまう」ということは悲しい。

 

あと「欠点を言うことが相手のためになる」という価値観は「俺も本当は言いたかないが、お前のためを思って言ってるんだよ」というような、欺瞞に陥りがちだ。(欺瞞というのはウソのこと。だって絶対言いたいもんこいつ。)

そもそも、作品なんて、どーでもいい。良くなる、ことだって、どーでもいい。という視点も大切だ。

 

相手にとって「良くなることが、良いことなのか」も定かではない。

 

なので、どんなやつが相手かわからないのに、相手に直に届いてしまう可能性のあるネットで悪口を書くのは非常に「余計なお世話」的、検討外れに陥りやすい行為だと思うので、なるべく、ホメ以外をネットに書くのはやめよう、というのが、今のわたしの方針だ。

 

もちろん、高校までの方針にも良い所はあり、それはアンチポリコレ的な、人権を無視してでも、芸術を語るぜ、的なクールさがあるが、あくまで、相手の顔色を伺いながら、そういうクールさは育てていきたい。クールさ、というか、毒というか。