21歳②①
TITLE: 「三月の5日間」
CATEGORY: 演劇
DATE: 12/19/2011 01:42:10
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観た。横浜、神奈川芸術劇場にて。
思ってた以上に、面白かった。
語りは、芝居より自由で、場所も、人間も、自在に飛ぶ、変われる。イマジネーション。心地いい。
小説でもない、映画でもない、不思議。役者が僕に話しかけているような、僕も舞台の一部なような。
役者には固定の役がない。しゃべっているのは誰のセリフかわからない。登場人物なんて、居ない。能じゃないけど、目の前で喋っているのは人間じゃないと思った。あるいは僕自身が喋ってるんじゃないかと。よくわかんないけど。
読んだ時にはわからなかったけど、言葉が、ものすごく耳にすんなり入る。すごいセリフだ。そう言える役者の技術もすごいんだろうな。振りつけられた動きも適当じゃないのがよくわかる。わかる動きだ。なんでそういう動きをするか、わかる。たまにボクの体も、同じように、動く。
非常にどうでもいい会話が繰り広げられる。というか、それしかない、それを削ったら、なにも残らない。というか、どうでもよくないセリフってなんだろう? そんなものこの世にあるか? どうでもいい会話しかない。それが愛おしいんじゃないか。それが大事なんじゃないか。それが素晴らしいんじゃないか。
終わり方。
「家電」を見たときも思ったけど、あれはそういう作りなんだろうけど、上演時間が終わったあと、その続きとして、現実が始まる感じ。現実も、芝居の延長のような、芝居も現実の一部だったような。非常に境目が曖昧だ。どう考えても、不自然極まりない舞台なのに、そう感じる不思議。現実(リアル)っていろんな形がある。
芝居は、やはり、観てこそだった。
〜〜〜
想像を超えて、見る前に考えていたものを越えて、
ものすごくわかりやすかった。
というのが印象に残っている『三月の5日間』は。
これを見てから、『ホット・ペーパー、そしてお別れ』『フリータイム』『エンジョイ』などの初期作品から『ゾウガメのソニックライフ』くらいまで、すべてがしっくり来るようになった気がする。もはや読むだけで。
芝居ってそういうのがある。その作家の上演をみることで、くっきりして、のちには同じ作家なら、別の作品でも、台本を読むだけで大分わかった気になる。
何かの授業で、「寺山修司の演劇の本質は、戯曲ではなく、演出にあった。だから寺山が死んでから上演される寺山の芝居は、別物だ」という話を聞いた。かといって、寺山が演出した寺山の芝居は、もはや生で見られぬので、どうしようもないことだけれど。
だから、作家本人の演出じゃないと。っていうのは、
そんなに重要じゃないと思う。(見れた人は幸福だと思うけど)
少なくとももう見れない私からしたら、
だから、ブレヒトなんかにしても、その勘所は上演した舞台を見ないとわかんないな、と思うんだけど、色んな所で研鑽を積んだ人が、ブレヒトを上演しているから、そういうのを何本も見て、イメージするしかない。あるいは、上演をやってみる。
というか、チェーホフにしても、見るまでは、あまり釈然としなかったところ、というのはあるから、別に難解な作風じゃなくても、演劇って見たり、やってみないと、味わえないことが多いなと思う。
といっても、そうじゃないとダメとか、そういうアプローチのみが正しいみたいなことは、ないと思うが。
(だって、そんなん言ったら音楽とかも、演奏したり作曲できる人しか、めっちゃ芯から楽しむことは出来ない、みたいな話になって、たぶんそれは正しいのだけど、僕はそうじゃないから、僕なりにできる楽しみ方しかできない。たとえ求められてもできない。)
(他にも海外の小説を翻訳ではなくて、原文で読む、とか、できたら素晴らしいだろうけど、できない。)
演劇に関してはできることもあるので、主体的に楽しめばいい。と思う。自分に対しては。