21歳⑮
TITLE: 江古田の図書館のがやっぱいろいろあっていいなぁ。
CATEGORY: 読書
DATE: 10/29/2011 22:39:44
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図書館で借りて、ドイツ現代戯曲選を読んでいる。
『タトゥー』デーア・ローア
すらすら読める。リズムがいい。最悪から始まり、さらに最悪で終わる。どうにもならないところがリアルでいい。変な感触、ぬるぬるしてる、でもリアルっぽい。
『座長ブルスコン』トーマス・ベルンハルト
閉塞感。アゴラ劇場で、マームの当日待ち中に読む。小さな劇団、というか、家族でやってる劇団の話。
父にして、座長こと、ブルスコンが延々と喋る。つらい、つらいであろう、小さな宿屋、の、ダンスホール、まったく人いない。さびしい。一席ぶつ、演劇論、演出論、偉大なるブルスコンの名声を、語る座長。
息子、娘、妻、愚物ばかり、偉大なるブルスコンの子とは思えぬ、雨降る。公演打ちたい、人来ない、というか、人いない、村。村、寒い、村、村。どこだここは? 町ではあんなに受けたのに、こんなの、我々にはふさわしくない。町では受けたのだ、たしかに、受けたのだ。新聞にどう書かれようが、奴らは見る目がない。私の喜劇は完璧だ、ただの喜劇ではない、本物の芸術、シェイクスピア? ゲーテ? ふんっ、唯一、ブルスコンのみが、辿り着いた。
閉塞感。息子たちは本を読まん、必要な、この喜劇を演じるために、必要なものを、なに一つ持っていない。
なんだ、その眼はお前たち? わたしは、わたしは、芸術家のなのだ。
『火の顔』マリウス・フォン・マイエンブルク(松井周と同い年だって)
惨劇。ほれぼれする。長ゼリが美しい。静かな感じ。タトゥーもそうだけれど、舞台上で起こっていること以外がショッキングで、しかし、十分にそれを想像させるっていうか、むしろ、描かれていないからこそ、想像するからこそもっと、怖いっていう、演劇的に、面白い芝居だなぁ。見えないものを想像させる力。
『私、フォイアーバッハ』タンクレート・ドルスト
モチーフ? っていうの? 座長ブルスコンに似て、演劇(芸術)人の悲哀っていうか。もう、生きることすなわちそれよって、思い定めた人の、恋しつづけている人の、焦がれてかなわぬ人の、しかし引き裂かれた人の、お話。
これも、『ブルスコン』と同じく、ほとんど一人語り。
7年ぶりに演劇界に復帰した名優、フォイアーバッハ。彼は高名な演出家に呼ばれ、その演技を見せるために劇場に行くが、演出家はいない。
代わりにいるのは、演出助手。軽そうな男。
辛抱強く待つ、フォイアーバッハ。あくまで、ジェントルマンに。「私は時間通りに来ましたよ。いえ、怒っているわけではありません。彼は忙しいから、ついつい現場が長引いているのでしょう。ただ、これだけは伝えておいてください、私は時間通りにぴったり来た、とね。」
しかし、演出家は来ない。焦れるフォイアー。待ってる間、彼は、演出助手に奇跡のような演技を見せる。彼のもとに大量の白い鳥が現れ、乱舞する、戯れる。夢のような光景。しかし、演出助手には見えない。
二人の会話は徹底的に噛み合わない。
幼い時に芝居を観て以来、芝居の熱に憑りつかれ役者を志したフォイアーバッハ。
旅行中にたまたま、ヒッチハイクした相手が劇場関係者だった、演出助手。
フォイアーバッハのことをどこか、馬鹿にする演出助手。
自分のことを、ときに誇らしげに、ときに卑屈に話すフォイアーバッハ。彼は演出助手を見下したり、おだてたり。
しだいに、フォイアーバッハは隠れて、演出家が自分たちのやりとりを見ているのだという妄想に取りつかれる。
なぜこんなことをするんです? わたしはフォイアーバッハです。それで十分じゃないですか?
昔、よく一緒にやりましたね、あぁ今でもよく覚えています。
この七年ですか? 取るに足らないことじゃないですか? どうしてそんなことを?
この七年、ええ、この七年、とるに足らないことですよ。
大丈夫です。私はまだやれます。私はフォイアーバッハです、かつて、あなたと仕事していたこともあるフォイアーバッハです。私は、あの時よりさらに、進みました。
あのとき、あのときのわたしは、わたしは、もうないのです。芝居があります、ただそれだけです。私ではなく、芝居が。芝居をするためには、私がいてはいけないのです、自分を忘れ、言葉の意味さえも忘れる、極意です。七年前のような、かつてのようなミスはしません。あの後わたしは、ええ、そうです、いましたよ病院に。7年間ずっと、頭の病院に。
しかし、私はこの通り、ねぇ、なぜこんな…、こんな若僧相手に、
真っ暗な客席の中に、演出家がついに到着した、
フォイアーバッハには見えないが、とにかく彼は覚えてきたセリフをいう、慎重に、もはや間違いが二度と起こらないように。
その演技はもはや先ほどの奇跡のようなそれではなく、どこか不気味で、不自然なものである。
続く、長ゼリ、フォイアーバッハは演出家のコメントを求めるが、声は帰ってこない。
演出助手「・・・・さん、はお帰りになりました」
フォイアーバッハ「ははは、ということは、私はもう帰っていいということだね」
演出助手「あれ、フォイアーバッハさん、靴、クツをお忘れですよー? フォイアーバッハさんー!?」
クツを置いていくということの意味が日本と同じならば?
『文学盲者たち』マティアス・チョッケ
文体軽い。「〜じゃん」みたいな、「あれ、これポップじゃん」みたいな。
テレビの脚本とかもやってる人らしい。なんかケラリーノみたいな立ち位置なのかな。ま、全然違うか。
なんかね、面白いんだわ。ばかばかしくて。文学界の話、と見せかけて、なんか芸術全般な気がするなぁ。
本谷由希子の、ショーウィンド演劇、15分×2本の、原宿の。安藤サクラ出てたやつ。アレ観に行ったときに、電車で読んでたんだけど、なかなかどうして止まんなかった。いや、シューウィンド演劇もすごい楽しかったけど、これもすごいポップネス。原宿のド真ん中で、街なかでやる芝居。しかも超オシャレな店の、ショーウィンドの中でだぜ。いやぁ、すごい。ま、それぐらい面白かったってことで。
ハントケとね、イェリネクを借りてます。まだ。
でも、ハントケの戯曲がね、ト書きしかなくて、なんかすごい読む気がしない。
そこに全裸の男女が通り過ぎる、みたいな。無言劇です。
読みものじゃないよねそれはもう。
〜〜〜〜
ベルンハルトは小説もいいよね。つっても短編集『ふちなし帽子』しか読んでないけど。(ふちなし帽子を拾った男が、ふちなし帽子を被るのは肉屋に違いないと判断し、その辺の肉屋のドアをノックして、『あなたの帽子ですね?』と尋ねたら、「いや、違いますけど……」ってふちなし帽子被った肉屋の店主に言われて、町中の肉屋という肉屋(皆ふちなし帽子被ってる)のドアを叩き続けても、持ち主はみつからず、この先、何百、何千という肉屋のドアをノックすることになるのか……という己の運命に戦慄する男の話、ちなみに男がふちなし帽子の持ち主を見つけねばならない理由は特にない←うろおぼえ、まちがってるかも)
狂っている人間を狂ったまま描いて、それを狂っているって突っ込む人もいないし、狂っている人も、ことさら読者のためにエキセントリックなことをするわけでもなく、己の思考にしたがって、動いているだけで、とくに価値判断とか、うまい落ちや、教訓、エンタメ性とかなくて、でも読み終わった後、3日くらいは頭から離れなかった。端的に言うと、社会生活を営む間に、狂人について考える時間を持つハメになった(ちなみにそんなこと考えねばならない理由は特にない)
ということで、ドイツ。
ドイツは音楽もいいよね。
クラシックもすごいらしいけど、なんて言葉じゃ言い表せないくらいなんだろうけど、クラウト・ロックとか、ジャーマン・ニューウェーブとか、こいつら、一体過去に何があったんだ? というくらいの狂い方してて、よく考えたら、過去にはめっちゃ色々あったやんけ! と思って、でもそれは日本も同じはずなのに、あぁ、でも歴史の受けとめ方が違ったんだなぁ、壁はないし、抑圧が、また違うし、面白いよな、ドイツ。
アメリカ人がブルースとかソウル・ミュージックとかキリスト教で得られる救済を得られなかった白人の狂い方って感じがして(←完全に偏見やけど)面白いよな。
ということで、僕結構、ドイツ好きです。最近はソ連も好き。
なんでやろ? ってことを、今の浅い知識ではわからんから、適当なことしか言えんけど、そーとー面白いテーマですよこれ。
面従腹背のアーティストが仕込んだ皮肉、
西側に追いつけ追いこせと積極的に新しい(変な)ものを支援する文化政策、
ファシズムを批判する政府による抑圧
大陸的、東と西の混血、馬、馬のような名字、ロシア的情熱
だ、誰かにみっちり教わりたい……!
つーわけで(ドイツも半分ソ連っしょ?)ドイツ現代戯曲選。好きです。
なんか、しっくりくる。
やつらの投げやりさとか暴力性。
政治的な言葉の弄び方とか。