まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

20歳③①

TITLE: 2011 3〜4月の観劇

CATEGORY: 演劇 

DATE: 04/23/2011 22:09:46 

BODY: 3月と4月の観劇。

地震と引越しを挟んでるんだなぁ、これが。

3月5日 
『労働です』 範中遊泳 STスポット

3月6日
『ネズミ狩り』 チャリT企画 こまばアゴ
サザンカの見える窓のある部屋』 カムヰヤッセン 下北沢「楽園」

3月11日 じしん
3月28日 ひっこし

3月31日
『裏屋根裏』 燐光群

4月10日
『その族の名は家族』 ハイバイ 青山円形劇場

4月19日
『わが星』 ままごと 三鷹芸術文化センター 星のホール

4月23日 
ゴドーを待ちながら』 新国立劇場 小ホール1


もろもろの感想。

まずね、『わが星』を見れてよかった。あと『ゴドー』。
なんかつながったんですよこの2つ。まぁ、全然違うんだけど。

『わが星』を見て泣いた、とか言ってる人がいたけど。ボクは違った。ホッとした。みんな死ぬんだ。滅ぶんだ。一瞬なんだ、そう思うと、とてもホッとした。

「いっぱい住んだね、いっぱい死んだね」

また嬉しそうにいうもんだから、ちーちゃんが。
「それでいいのだ!」と思えた。

ボクはちーちゃん役の、青年団の端田新菜さんのファンだ。ファンとしかいいようがない。二騎の会の『F』を観たときから。ちなみに『F』は今でも、もっともボクの頭んなかにこびりついている舞台の一つ。

19日の回には宮沢章夫も来ていたらしい、ツイッターで「やはり、ちーちゃんだ!」と言っている。

面白かったのは、客席の中に、笑ってない人がいたこと。大抵おじいちゃんであった。音楽がずっとかかりっぱなし時点で、ついていけない人もいたのかもしれない。

しかし、リズムというものは、強い。やばい。
ひょっとこ乱舞の『ロクな死にかた』を観たときも、その舞踏(足踏みとか)が、なんか生命力そのものだとか、そんな風に感じられて、とってもエンゲキしてるなぁ、肉体だなぁ、と思ったけど、今回もやはりそんなかんじ。

ときどきボクは足で拍子をとっていた。皆はしなかったのだろうか。

スケールの大きさ。大まかであるから、細部は全くない感じだけど、大まかなものに、しばらく触れていなかったから、やはり新鮮だ。しばらくは憧れてしまうなぁ。
単純に生理的に、気持ちがいいモノだったので、エンゲキってそういうものだったんだ、と思い出した。そう、思い出した感じ。分かる人には分かる、「もんだげき」のような。演出的な芝居であった。

DVDを買うか一瞬迷ったけど、基本的に芝居は記憶の中にあるだけがいいと思ったので、やめた。収録できるもんじゃないよ。


ゴドーを待ちながら』 演出:森新太郎

今日観に行ったので記憶が新鮮。そしてボクは森新太郎さんのファンでもあります。

新国立劇場は、当日券が学生は半額なので、並んだ。
ギリギリであった。

寝ている人が多かった。ボクの周りだけだったかもしれないが。だって相当エンタメ入ってたぜ、眠れないよ、普通の神経じゃ(主観的過ぎる)。訳がとても現代語っぽかった。アドリブのように見えるセリフも多かった。(悲劇喜劇の5月号でこの公演の台本が読める。)

ポッツォ役の山野史人の演技というか、動きと声がすごかった。激しかった。だって69歳だぜ。

演出は、とても、わかりやすかったように思う。

たとえば、ボクは退屈だ、閉塞感に打ちのめされてる、なにをしてもパッとしない。脱出したい、どこかへ来たい、そうだ、京都いこう、いや、いったけどなんにもない。金だけかかった。やはり外国だ。パリに行きたい、行った、ただの町でしかない、言葉は通じない、移動は疲れる、虫歯は痛い、人間は人間だ、どこいっても同じだ、パリだからどうなんだ、宇宙だからどうなんだ、東大いっても、どうなんだ、思ったよりつまらない、じっさいなんにも変わらない。なにもかわり映えしない、退屈だ、退屈だよ、よし、首を吊ろう。

ただ、ゴドーがくれば全ては変わる、救われる、でもゴドーはこない、ずっとこない。

二度目に少年が来たとき、
こともなくウラジミールに、「ゴドーは来ない、明日はくる」と、昨日言ったのと同じことを言う。
ウラジミールはついにキレる、
「ゴドーに伝えてくれっ! たしかに私と会ったと! おまえは私のことを覚えてないのか!?」

そのキレれ方がとてもパンクで、人間らしくて、とても感動した。

しかし、いったいなんに対してキレてるんだ、キレてどーするんだ、ってなるわけで、いくらキレても、体が、悲しみでパンパンに膨らんでも、やはり、待つしかない。

その辺がとてもわかりやすくて、悲しくて、でも、

ホモじゃないけど、エストラゴンとウラジミールの2人は本当に2人でよかった。

同じように悩んでいるひと同士で、一緒に待つことができるなら、という救いをこの芝居を観て感じた。別に、金払って観たからにゃあ、ムリにでも何かひねりだして感じてやるぞ、えいえいえいっ、……というさもしい精神を発揮しなくても、感じた。

大きなスケールという点で、わが星となにかつながるものがあって、人として生きること、についてなんらかの安心やら、慰めやらを得た。

異論のある人もいるかもしんないけど、スケールの大小なんて、計りがあるわけじゃないんだから、厳密じゃないし、客観的でもないし、そんなことどうでもよいのだよ。

今日は、面白い芝居が観れた。 ----- EXTENDED BODY: 追記

すこし冷静になって考えてみたら、『わが星』には、ものすごく当たり前のこといってるだけじゃん、っていう反論? 欠点とはいいたくない、があるかもしれないなぁ。

今の科学、哲学が、なるべく主観を排して世の中はこうじゃないでしょうか、といって、間違いでもないけど正解でもないって、感じに似てる? そんなの思うのはボクだけか?

無難っちゃ無難。しかし、一見正しそうで、公平で、なにもかも達観してすっぱりキレイに説明できちゃうと、つまらないのかもしれない。


四季の芝居とかの、勧善懲悪だとか、ボクは乗り切れないけど、過剰な浮かれ具合に、ちょっとワクワクするのもほんとだ。
どーも間違っているようなシナリオでも、その方が面白いからという理由で、人間は歴史や芸術をこちょこちょしてきたのだろう。

芝居も哲学もそうなのかも。暇つぶしをソレ以上のものだと思おうとする。

それに成功したと思った瞬間失敗して、ゴドーを待つ心持にもどる。

 

〜〜〜

特にコメントはでないなぁ。

やはり作品に対する感想とかに何かは言いづらい。それが過去の自分であれ。