まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

20歳⑨

TITLE: ブタ野郎! CATEGORY: 映画 DATE: 02/02/2011 12:55:46 ----- BODY: 『ブタがいた教室』 2008年 日本 
(あらすじ)新米教員の星は、クラスでブタを飼って、可愛がって、最終的には喰うことを提案。命の授業がはじまる。

人から薦められて観た

ブタはどうやって食べるのかな(豚汁かな、トンカツかな、小学生が皆でトンカツを食べる図は面白いな)とか、考えていたら、食肉センターに連れ去られるところで、終わり。

ドナドナのように、トラックで連れ去られるブタ、走って追いかけるクラスの26人。
同じようなラストでも『蝶の舌』(スペイン映画)の、主人公の少年の恩師が、トラックの荷台に乗せられ、ファシスト達に連行されるシーン(それこそ、ブタ以下の扱いを受ける。主人公も泣きながら恩師に向かって石を投げる)と大違い。

甘くない?

ピアノとか、音楽でごまかしたり、「アイツも一緒に卒業だ!」とかいって、ごまかしている。
家畜のキモチなんて知りたくもないけど、想像するとゾッとするよね。

子供が出ている、子供が観るような映画にケチつけるのは、ダサいかもしれないけど、ガキやジャリどもにも、もっとちゃんとしたモノを見せたほうがいいんじゃないかと思う。

ただ、食べる、ということは、やはり大きなテーマだなぁと思った。
なにが正しいのだか分からない、答えはないのかもしれない。

貧困にあえぐ人々がいて、その人たちは生きられなくて、でも、ボクはヌクヌクらくらく生きられる、ボクは、「それはおかしい!」なんて言うことは絶対できない。だって、ねぇ? イヤじゃん? 平等。 

「食」以外にも、ボクらは様々な犠牲の上で、生きている。

仕事の犠牲者、恋の犠牲者、サービスの犠牲者、
ボクらが、のほほんと生きる人生の表街道、その裏には、死々累々。

今んとこボクは、「犠牲になってください。」としか言えない。
ホントは頼んですらいない。興味がない。ないわけじゃないけど、なにもしない。

ほんと、ブタ野郎だなぁ。
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追記 2011年5月4日

宮沢賢治の『フライドン農学校の豚』という短編がある。

読めば分かるけど、屠殺されるブタの視点から、農学校でのブタの生活(?)を描いた短編。この映画よりずっと考えさせられるよ、賢治さんには。いのちについて。

 

〜〜〜

文体が少しずつ今に近づいている気がする(まだ20歳なのに!)

社会的なことに言及しようとしつつも、結局興味ない、で、終わるスタンスも、今とほぼ同じ。

豚やろうだなぁ。みたいな、言葉尻で、オチにしようとする安直さも今と同じ。

2019年の現在の実感からすれば「犠牲者」的な物が、もう少し具体的に思い浮かぶ。

このときのおれはまだ働いてないわけだし。たしかバイトすらしたことがない。

貧困と豚が結びつくのは、説明不足だが、同じ人間だから、僕にはわかる。

豚を食うということと、サービスを受けるということは似ている。

だけど肉をくれる豚に対して「犠牲になってください」はおかしい。

 

なにもしないのは、とるべき具体的な行為が見えてないから、それは今も同じだ。

おれは豚を食い続けているし、同時に食われ続けている。

不勉強故に盲目の豚だ。

だから盲目じゃなくなることにはきっと意味がある。

変化すること、自尊心とガッツを失わないこと。意味がある。

 

それにしても追記の急な「賢治さん」呼びはいらっとくるね。