おめ!
ブログを書かなかった数年間。
自意識の消滅、(したらそれはもう人間じゃないか)
というより、自意識のコントロールにつとめたが、
つとめようと思ったのか、思ってないかももはやあいまいだが、
あまり成果は出なかったことだけははっきりしている、今ここに。
ここまでの記事に。
自意識のコントロール=無言、消極的にする、諦める
という行動や志向に
間違いはないかもしれないが、(なにが間違いとかわかんない)
ただ、それをやってみて、僕の場合、あまり面白い結果にはならなかった。
だけど、
今も自意識の肥大をノンコントロールで放置するのはかっこ悪いという感性がある。
それはなぜか?
ずばり、自分の書く文章や発言、作品などの、
自意識がすごいとき、
そうでないときに比べて、
ダメ(おもしろくない)なときがある。
つまり、おもしろくない状態に自意識のせいでなってしまう。これがはずかしい。
例えば、どうでもいいことを、どうでもいい言葉を使って、ねちねちかいて、それでも自意識で盲目状態だから興奮してケッサクだと思ってるヌケサクみたいなおれが自意識に励まされて、それをそのままブログに載せて満足する。みたいな。
僕はすごくそういうことになりがちだけど、世間にもときどき、そうして作られたものが、発言が、文章がわりと、ある。みる。みたことある。
自意識そのものをテーマにしたクソ面白くない作品とか。
あるじゃん。
(逆に自意識をテーマにしたクソ面白い作品もあるけど、
あるいは自意識自体が面白いとか、
ホイットマンのありえないぐらい過剰で巨大なそれとか。
《巨大すぎて、自分が自然とか、アメリカとか、神になっている》
太宰治みたいに、みんなが抱きがちな自意識をさらっと上手にポップに描いて、
自意識の塊である僕らのような人々をアレコレとひどいめに合わせてみたり、いっそ微笑ましいものとしてその姿を描いて、僕らにウインクしてみたり。)
そういうクソどもと同じ、ダサくて痛い、自分と出会うことを避けたいと思った。
家族や友達にみせたくない、とも。
だがそのために沈黙を選ぶと、
(ブログとかTwitterとかかない、演劇とかしない、演劇の宣伝とかしない)
それはノン、ゼロとは言わないが、
(書いている文章以外の生活、演劇以外の生活はあるからゼロではないがむしろ豊かで恵まれている方だと思うけれど)
もしかしたら得られるものを諦めることになる。
読むことや書くことに対する信仰や憧れがまだあるのに。
他のダサい奴らとなんら変わらない雑魚な俺はそういう自分と出会って、殴り続けたり、肩組んでごまかし続けたりしながらも書いたり喋ったりすることでしか、
試してみたり、頭を使うことを止めないことでしか、
見たいと思うもの、いつか手に入れたいと思うものに近づけない。
痛いこともあるし、何よりめんどくさいが。
大晦日に(自意識ゆえに)書いて、(〃)UPして、(〃)消して、(〃)にまたUPして(〃)にまた消した文章をここにまたはりつける。
些細なことだが、
今年の方針として、
消さないことを選びたい。
(ただしその選択の前に悩んだことは大事なことであるように思える。
自意識と付き合う上では)
〜〜〜
真夜中に書いたラブレターは恥ずかしい。
では年末に書いた文章は?
死ぬ前に書いた文章は?
恥ずかしいに決まっている。
平身低頭の日常、平常運転の身からしたら、曲がりきれないカーヴ、危険な言葉がいっぱい。
というものの、それは死ぬ前、年末、真夜中という時間に酔って、任せて外に吐き出しているだけで、
ほんとは一日に何度も恥ずかしいことを感じたり、考えたりしているのだ。
日の光のなかで、白昼の、明るくも機械的な毎日のなかで。
たとえばバイトの休み時間なんかに、
なんとかしてそれを表に出してスポットライトの下で照らしたいと願うのだが、
(発表と言うのはそれなりの体裁を取らなければならない……)
みたいな間違った考えに囚われてしまう。
はずかしみ。み、み、み。
そう、なんだか罪悪感にも似た恥ずかしみを感じてならないものだから、
もっと素直に思っていることを吐き出せばいいのに(どうせ聞いてくれる人のことなんか、考えてないのだから)
わざわざ、やりたくもない舞台、書きたくもない台本(でもやっているウチにそんなことわすれて、そのことにむちゅうになるのだけど)に整えなくても、出してしまえ、作ってしまえ、蛇口ひねって、目の前にどんと、置いて、考えて、頭ひねって、やややや、っと赤面して、彼女に見せたいなぁと望んで、
諦めて、
思い直して、
ベッドの下に隠して、
だけど、数年目に思い出すためには、
人から、いつかそのことについて言及してもらうためには、
(いつかゴダールがいってたこと)
「喋ることは生きること
愛なしで生きることができないように。
喋るということは喋らない人生を生きないこと。利害から離れること。
喋るとは考えること、己の考えを伝えること。」
ということで。
どういうことで?
今年は年越し戯曲を書こうと思う。
年越し戯曲。おそらく、それは戯曲ではないが。
今ないものが、年を越す間に産まれうるのだ。
〜〜〜
年越し戯曲はじっさい書いた。
2017年の内に書き出した。
2018年も書き続けてみるつもりである。