まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

22歳②④

TITLE: どうにかなる、みたいなこと町田康うたってて最近知ってなんか受けたわ
CATEGORY: 演劇  DATE: 03/17/2013 23:11:11

素直にいこうと思う。結局それが一番面白いし、記録として価値があるし、人の名誉を傷つけん限り。

僕は演劇は、やりたい。
なんでか? このことすっごい考えるのに、そんな深っかく考えたことない気がする。
僕はそんなに演劇が好きなのか? インターネットの方が好きじゃないか?
もちろん好きである必要は一切ない。愛情の裏返しとかでもなくて、別に好きじゃなくてもやりたいなら、やればいいと思う。

でも、好きだからやりたいって流れが、わかりやすい。だいたいの音楽とかがそんなこと言ってる。もっとも好きなものがあるなら、それをすることがこの世の幸せじゃないか。そして僕は幸せになりたい。一生のうちに幸せである瞬間時間をできるだけ多く取りたい。

ってのぞみは、いま思ったけど大それた望みだなぁ(話はそれる)
もっとお金が欲しい、
時間が欲しい、
自由が欲しい、
才能が欲しい、
愛が欲しい、
みたいに、各々の幸せを追求しないひとはあんまいないと思うのに、
需要と供給が成り立ってないなぁ。
幸せになりたい幸せになりたい幸せになりたい

なれるかどうかは一切わからんなぁ。
百%、幸せになれる可能性って不明ですよ。
信じてんなぁ、世の中も信じてることを推奨してるなぁ。

僕は幸せです。幸せな方ですよまったく。

(みたいな感じで演劇に関する思考はずるずるずるずるそれました)
これをグイッ戻す引力を僕は演劇に感じているのだろうか?
瞬間的に幸せが積み重なってきた快感を覚えている数少ない出来事が、演劇だったから、味をしめて、というか、幸せ狙って、幸せ狙いで、じっさい演劇なんかどうでもよいのだろうか?

じっさい演劇なんかどうでもいいときいっぱいあるしなぁ。いまそうじゃないだけで。
そう、問題は、今そうじゃないんですよ。
この悩んじゃう自分ってなにによって解消されるのか?

そんなことを考えているから、筆が一向に進まない。
気がつくと、こんなブログみたいなことを書いている、
それはキャラクターじゃない。俺だ。
でもキャラクターの命がどうとか愛がどうとか、そんなバカバカしい、ことより、俺の問題(果たして俺は幸せになれるのか?)の方がはるかに崇高で偉大で、大変かつ、俺は長いこと付き合わなくてはならない。ライフワークと言ってもいい、この「俺・幸せ」問題は。

で、問題は、問題は、この俺にとって一番重要な、俺の幸せを、一見実現してくれそうなものにも、俺が今書いている台本が、関わってくるということだ、つまり、図にすると。

台本を書く↓
稽古が盛り上がる↓
面白い面白い公演ができる↓
評判は上々、「ほなもういっちょやってみっか」ってことになる↓
名声、金、女、受賞パーティーシャンパン、犬、白い家、海外旅行

こんな町田康みたいな遊びをしている場合ではない。俺は面白い台本を書いて、それを使って面白い稽古をしなくてはならない。(余談だが、今のところの僕の考えとしては、台本(戯曲)と作品は、全然繋がってなくて、稽古と作品、あるいは、肉体と作品、よりぜんぜん距離の遠いものだと思う。ラヴストーリーより、ラヴストーリーを体現できる稽古、肉体を持った人たち、がいる方が望み濃だ。だからいい稽古ができるなら、台本なんてなくてもいい。鍋パするときの鍋敷きでも、寒い時燃やす紙でも、燃やした匂いが役者の演技力を刺激するでも、どんな形であれ、稽古に役立つ紙になればいいのだ。でも、欲を言えば、僕の技量でも成功率の高い、物語なり、セリフなりを書かねばならない。

これが辛い。

そう、物語とセリフだ。

僕は僕の尺度で、どうでもいい、セリフと物語が嫌いだ。
もちろんこれはまっとうな感覚で。多くの人が物語を愛しつつも、気に食わない物語は嫌いだろう。その尺度が、人によって違うだけだ。

僕は、僕の考え感覚と極端に違う、リアリティーに基づいたものが嫌いなのかもしれない。
ノレないのです。
あーこれをもっともっと説明できるようにならないとダメだ。
そしてこの僕の好みの妥当性っていうのも、あんまり平均から逸脱していると、それはそれで悲しいことになる。
名声→幸せ コースの道は永久に閉ざされたままだ。

とくに一緒に稽古する人たちには。(なぜなら僕のリアリティーはこの人たちの目に一番初めに触れるわけだし、この人たちと一緒に体現するのでそっぽを向かれたら、何もできない。ぐへっ。)

では、僕のリアリティーってなんだろう?
要するに表現法ですよね。

よく、テーマとかいううじゃん、あれよくわからんよね、だって、

愛と命じゃん、だいたい。

エロスとタナトスて授業では言ってたけど、

あと、幸せんなるか不幸せんなるかですね。


ヴァリエーションですよね。あとは、つーか人生もそうだよね。だいたいもう全部パターン化してんじゃん。
憧れ、夢、愛、希望、就職、貧乏、成功、パーティー

船の上の娯楽が限られてるみたいに、もう、生きる上でだいたい、楽しいことしちゃった。
みたいな、ね、瞬間あるじゃん。次は何をすればいいんだって。

いいセックスした瞬間に寂しくなる、みたいな、セックスの先はないのか! もっと素晴らしいものは!
あるんでしょうけどね、セックスったって一回しかできないわけじゃない、悲しくも、(何がとは言えないけど一回でもげちゃったらセックスってもっとすんばらしいものだったかも)だから、逆手にとって、何回も何回もできることを希望と思えるようにしなくちゃならないと思うんだ。

これです。これですよ。
僕は飽きてる。
もはや惰性の時期です。

芝居を観るのもだせー。やるのもだせー。
だから僕の嫌いな演劇はだいたいだせーの延長っす。それはもうつまんないって。
それならアレのが面白かったんなぁ、うふふふ。

悲しいじゃん。だせー、悲しいじゃんだせー。なによりだせーじゃん。だせーはだせー、わかってて言うけど、まじだせーじゃんこの語呂合わせみたいに。なんのあれもねぇーじゃん。セックス良くしよう! みたいな。

だからこのうんざりした繰り返しに倦んでる気持ち悪い僕にパンチしてくれる芝居が好きですね。

心が死んでて、からっからなんすよ。感動症の人が羨ましいっす。

泣けないんです。どーでもいいキャラが死んでも。僕、死なないし。
僕死んだ! って瞬間も、生きてるっ、って瞬間もなく、あぁ「ソフトに死んでいる」だからゆら帝好きなのか。

「こころ動け」(TOMOVSKY) 聞いたとき思ったもん、あ、おれ今死んでたって。体だけ動いて心が死滅してたって。リビングデッドでしたって。
学校もだせーで、就職もだせーで、だせーシャツ着て、ネクタイ締めて、生きるのもだせー、みたいなね、地獄っすねぇ、地獄。ぬるま湯地獄(つっても実際感動的なこととか普段の生活で結構あるんですけど、それがいつまでもある保証はないっつーね、できれば増やしたいっつーね、…あれ、増やしたいかなぁ? なんにでも感動してたらそれでそれはキモいから、なにか自分の中で許せないものは憎みつつ、自分の中で美しいことやありなことに日々打たれたり、思い出してはやられたりするのが、つうな楽しみ方な気はするなぁ、このゲームの。)

そういう装置になりうるかってことが基準すね、演劇の。いや、音楽も小説も、暇つぶし全部。心が動くか。心ってなんだ? ってことに考えるとまた長くなるね、だらだら、で、結局誰かが言ってることの劣化コピーみたいなんになるんだよ。輪郭があやふやで、ところどころズレてて。

暇つぶし。

稽古が、このだせー人生を少しでも楽しくしてくれますように。
稽古を通して、演劇がだせーくないことを、少しでも自分に、他人に、わかるようなものができますように。

過程を外して結果は出ーぬ。

おやすみなさい。






(追記)

公演 『タイトル未定』
6/21~6/23
於・大山サブテレニアン

まだまだ全貌が明らかではありませんが、情報は随時このブログなりアップして行きます。
ではでは〜



〜〜〜 不感症と言うか、サイコパス気味なところは今でも変わらない。 例えば、いま、コロナ禍の真っ最中で、この発言を自分でも正しいとは全く思わないけれど、本人も含めて誰も正しく思わないことは書いちゃダメ、という社会にまだなってないから書くけど。
こないだ職場の人に「コロナ怖くないの?」って聞かれて、 「だって最悪死ぬだけでしょ。」 とか答えちゃった。
私はまだこの後に及んで家族の死、友人の死、日本の死、世界の死、そして自分の死に対して全く想像力が働かず、恐怖がない。 ゆえに「想像力がないんですよ」と続いて言い訳したら 「え、劇作とかしてるのに?」 と言われた。ぐうの音もでない。
これは本質をついている突っ込みな気も致しました。

ぐう。

出してみてもそれはウソ。

いざ目の前にソレがくれば違うんだろうけど。 冬に夏の暑さが想像できないように。 喉元を過ぎた地獄のことを快適なところで思い出しているときの楽しさのように。
それが目の前に現れたとき以外は想像ができない、実感ができない。心が動かない。
というのが、自分にも人にもあると思うが、
それを、実感できるように書くのが作家かもしれないっすよね。

それにしても上の日記は駄目な文章だ。
「僕」「僕」とやたら自分を指す、主語が多いけど、いみじくも自分で言っているように、その「僕」が何故そう思うのか、何を感じているのかが他人に伝わるようにできていない。


できてない未熟な若造が惰性とか言ってんの、だせぇなぁ。


〜〜〜 「最悪死ぬだけじゃないか」っていうのは戦争のときと同じメンタリティだなと思った。だから悪いと言うか、紋切り型だ。
だからこの発言にナルシシズムみたいなのを覚えるとヤバいと思う。 だって、そんなのありふれた反応だから。
みんな、何を怯えているんだ、っていう認識を少し含んでいる気がするし。 怯えているのはそれぞれ守りたいものとか大事なものがあったりするからだろうし、わけもわからず、怖い、人もいるだろうし。
同じ出来事、同じ言葉や表現を前にしても、それぞれ個々の中で乱反射して、それぞれ違う万華鏡的な絵面になる、ということだ。

話は逸れ続けるが、だからTWITTERとかで発言や表現をして乱反射したことについて、「なんで?」とか「クソリプ」とか言うのは、ムリがある話だと思う。 (でも、そうやって、普通目にしない人の目に晒して反応を引き出したりできるからTWITTERには意義があるという人もいる。でもクソリプという呼び方は間違っている気がする。悪い言葉だ。本来必要のないゴミ、迷惑メールみたいにできるなら除きたいもの、とかみたいな感じがして。(「クソリプがうざい」みたいな)お前はどれだけお前の考え方が宇宙のスタンダードだと思っているんだ、お前と、お前に理解できる人間以外は、スパムだと思っているだろう、という感じがする。)

グチです。