まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

22歳②③

TITLE: 再開。 DATE: 03/17/2013 22:12:45 ブログ再開します。できれば。
再開もクソも、誰に宛てたものでもないのですが、カレーを食べながら、いま、生きている、のでなうは、あなたが見ているときはもう死んでいるかもしれないけど、いま生きてるっていうことは時間を自由に使えるということだし(例外はめっちゃあるけど)、その時間をなにかを書くのはなかなか有意義なことをしているような錯覚で(その文章のクオリティー内容関係なく、なんとなく満足感を覚えるのです)ゲームで言うところのレベル上げしたものをセーブみたいな、みたいな。

と、こんな感じで、ながなが書きつづけます。このブログ。この記事もこの先も。例えば僕のツイッター方は、長々ポコポコ(かなり後悔するんだけど、馬鹿なことつぶやいちゃった、嫌われないだろうか、とか、連続で投稿しちゃっていい気になってるなぁ、みたいな。)

モロに癖がでています。()とか、付け足し、例外への言及とか。

余談ですけど、芝居のエチュードなんかもそうなんだけど、なんか表現しようとするとき、バイトの事務的な挨拶などと違って、もろもろの癖とか、思考のパターンとか、出現して、面白いですよね(そうでない人もいる?)知り合いでも、知らない人でも。見てて結構笑っちゃったり愛しくなったりします。
(ここまでいい感じに編集されてなくて、とても文章が下手ですね、読点の位置もキモい)

で、カレーを食べてます、なう、(ルーが塊になってる、ちぇ)このブログを書かなかったあいだも、食事だけは欠かさず摂っていました。逆にいうと、ブログは書かずとも全然生きてけるし、読まなくても生きてけるのだな、自分は、という感じ。でも書くのは好き。ならば良し。

演劇の台本もそうで、(いま台本っていうか、戯曲というか、脚本ていうか、テキストっていうか、瞬間的にすごく迷ったけど、台本です、なぜなら近々公演するから、その公演することが、ブログ再開の、というか、今これをタイプしている、ま、直接のきっかけなんだけど、)
書かなくても全然生きてけるし、大学で、劇作コースなんていう名前がついてるところに、所属しているけど、そんなの全然あてにならないというか、生きる上で、書かなければ殺す、みたいな強制を受けているわけでもないので、(モチベーションを与えてもらっていますが)曖昧なもので、あんまり生きてく上で意味ないのかも、いずれ(2年後?)去るし。

だから、全然これまでご飯を食べてきたみたいに、必要なことではないから、演劇も、いずれやらないのかも、書かなかったブログと同じように。

でもやるんです、うぃる。6月に。

だから、僕は台本を書くし、稽古をします。そしてなにより、それを人に見せる! (その人っていうのは今回の稽古に関わってくれる人も含めて、稽古の内容も含めて)

そんなことをするんだから、ブログだって全然書きます。
はっきり言って、このところ、しばらく、記事を書いても下書きにしたり、
日記は紙の日記帳に付けたりしていました。

なんていうか、冷めるんです急に。
「で? それがなに?」っていう、反応を予測しちゃう、(別に反応のことをそんなに考えているわけでもないし、身近な人がこのブログを知ってるからってわけでもないのだけど)というか、俺自身が「で?」ってなって、書いたときは高揚状態でupした文章を30分後に消したり、を、4,5回したり、自分でもちょっとわからん恥ずかしさ。

駅で電車を降りたとき、そして少しいい気分で、澄んだ思考ができるようなときに思ったりしたのに、

「世の中の人は俺になんて興味もってないけど、(まず知らないし)でも、わざと興味ない、というスタンスでいるほどの興味もないのだ、と。」
the birthdayの『Alight』に「敵は味方でもないし、敵でもない」っていう一節があるけどそんな感じ。世界は味方でもないけど敵でもない。だって自分がそうだから(人が自分とは全く違うということは理屈では理解しているけど、僕が興味持っている程度、あるいはそれ以上に、みんな人のしゃべることや、他人のイメージには興味があるではないかと思う、それぞれの趣味趣向があるけど)

みたいなね、自分のね、考えたことをわざわざ開陳、することがなんだかバカらしくなったんです。
でも、別に逮捕されるわけじゃないし。やっぱり自分としては、そのとき自分がなにを考えてたのか、それを失った気がするとき(記憶を失ったことすら失ってしまったとき、一瞬だけのデリケートなことを考えて早くもそれを失ってる自分がやすやすと想像できるとき。)なんだか惜しいな、と思ったりするので、記録に残すのは、面白いと思うのです。

こんなネチネチ書いてるとやはり病的に見えるかもしれない、かなぁ(どうなのだろう?)でも実際なんか手記とか、闘病記、とか、アンネの日記とか、どうでもいいことをネチネチ書いてるから、なんか僕だけの病気ではないのだろうけど、病状は僕だけの病状なんでしょう。

こういうのが、さらっとどうでもいいときありますね、音楽聴いてるだけで気分とか変わっちゃうもの。まるっと。

で、大体は春休みのせいだと思うんですよ。
先輩と飲みに行ったり、人と遊びに行ったりたまにしますけど、基本的には一人の時間がいっぱいあるし。

だから、考えてしまう。考えるのだけど、それはどんどん更新されるから忘れてしまう。
基本的に、忘れてしまうようなことなら、忘れてしまえ、と思わなくもないけど、ここで一つ問題となるのは、現在僕は台本を書いている、ということなんです。

こんな状態で書いている台本を、
こんな状態じゃない僕が見たらどうっすか?

「なにこれ? つまんねぇー、あーどうしょ、書き直さな」となるやも。
なぜ僕はこんなことを考えたか、そしてどんどんコロコロ変わる思考の軌跡をある程度残しておかんと、ちょっと非効率ちゃうで? と思ったわけです。じっさい、なんども悩んだり、悟ったり宗旨替えしたりするけど、同じとこずっとループしてたり、前に考えたことを新しいと錯覚して、いっこも発展性なかったら、ほんましょんもない!

思考の軌跡を具現化っつーのも岡田利規の『遡行』見て思いましたしね、影響されやす!
で、この何に影響されて、どーなったんだってことをまとめるのが、勉強の基本やろうし。間違った公式も消さずに、残す。

長いなぁ、繰り言。
今回やる芝居に関して考えてることは基本的にWordに纏めてんですけど、絶対効率悪い感が。
プリントアウトした紙もっとくんもウザイし、ハンズフリーでおりたいんで、やっぱ便利ですわ、ブログさん。

あとは書くか書かないかだわぁ。
書いたところでおもろい芝居はできんかもしれんけど、まぁ、書いたせいでつまんなくなるってことは多分無いでしょ。
怠慢から生まれるものって、そんなない気がするわ、なんかありますかね。

みたいなね、格言じみた(全然それっぽくなくても)文章を、自分の台本とかにもチラ見えして(露骨に書いてて)、今ものっそい嫌です。やっぱ頭悪いわそれ。説明されても。それこそ「で?」ってなる。

「……で?」が怖い。
他人のというか、仮想他人の、なんですけど。

〜〜〜 社会人になった今、毎日、やることがわりとあるので、あまり、春休みで悶々としたから文章を書こう、みたいなことにならない。
むしろ、働いて、働いて、飲むビールがうめぇ。とか、疲れてただ眠いから寝る。とか、一日の終わりに、ほぼ何も考えず、惰性で、音楽聞いて、ちょっと気持ちよくなって寝る。とか。そういう感じが多い。

それでも、あまりにも隙間ないのが嫌で、サラリーマンを辞めて、スケジュールの不定なアルバイトになった。この先、安定してそれなりの給与のあるところに再就職できる予感はしない。今後も貧乏でありつづけ、不安定な雇用の影響をモロに受け、平穏で余裕ある生活、可愛い子供と庭、みたいなのは今のところムリかなって感じ。でも演劇できてるし(公演とかはそんなにすぐに簡単にできないけど)幸せ。そう、わりと俺は幸せだ。考えないからだろうか? 不幸な未来を予測したり、備えたりしないからか。それは劇作家としての資質に欠けているかもしれないが、資質に欠けている奴が作る者って言うんは歪でいいかも、韻を踏んでるし。

そして、他人について。
自分をまったく理解してくれない完全なる異質な存在のことを他者と呼ぶのかもしれないけど、世に出てみれば、他人とはそういう他者ばっかりではない。社会に生息している分りあえる(うる)他人と、絶対分りあえない他者の比率についてはわからないが。(いまのおれは小劇場、音楽業界(小売店)で働いているから、社会というのはあまりに特殊なところに息している) 特殊なところにいる皆は趣味人だったり、サクセス願望があったりするから、表現をすることについて大体ポジティブだ。
だから今のおれは表現することについて、わりとポジティブにやっている。 ポジティブなものとして捉えている。

だから、 「……で?」 っていう声を聞いたとしても、それはポジティブな「……で?」として捉える。 他人への無理解無関心と言うより、理解したいができない、もっと向上して欲しい、的な「……で?」だと思っている。それが今のぼくの仮想他人であり、そうでないやつの「……で?」なんて考えたって仕方ないと思っている。

だから書く。当然。