まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

20歳⑭

TITLE: 意見でもないし、主張でもない、なんだコレ?

DATE: 03/03/2011 15:16:29 -----

BODY: 坂手洋二のブログ『Blog of SAKATE』を読んでいたら、宮沢章夫は、一日のうち、2時間ツイッターしているという。アレはそんなに楽しいの? 

現代には、生身の(機械を介さない)コミュニケーションだけではなく、電話から始まり、メール、スカイプミクシィツイッター、などのツールがたくさんある。

僕はあまり、そういうツールが活用できないので、なんとなく、時代から取り残されている感じがする。というか、時代にうまく乗れてない? (乗ったほうがいいのか? という迷いもあるけど。)

がんこジジイと一緒で、新しいテクノロジーがイヤなのかもしれない。そうすると、オレは、新しいものに対する好奇心や向学心が薄いんだろうか? 流石に、モノによると思うけど、そう考えると落ち込むなぁ。

けっきょくね、直接会うのが、いちばん楽なんです。
ただ、楽なんです。
楽なんです。
他のツールは、めんどくさい。電話でもまどろっこしいときがある。

でも、それとは別に、たぶん、一日中、人と会って、会話やアレコレするだけでめんどくさいのに、なんで、画面を通してまで、また、コミュニケーショらなきゃいけないの?っていうのがある。

本音はそれだ、おそらく。だとしたら、おれ、コミュニケーションに対して、消極的なだけじゃん。

致命的かも。演劇やる上で、それは。



2.
テクノロジーの話から、どんどん話が転がっていくけど、続けよう。つまり、コミュニケーションに消極的なおれは、どうなんだ? ヤバイかなぁ? このままだと?っていう、個人的な、悩み?ギモン?が出てきた。 なんせ時代に乗れてないし。

でもね、
友達や、
家族とか、
話す人、
あるいは理解者、
メル友、スカ友、ミク友、ツイ友(マイミクだか、フォローだか知らないけど)
が、いなくても、まったくコミュらなかったとしても、それが悪いとは、一概にいえないでしょう。とも思う。

孤独は怖くないし、ダメじゃない。モノによるけど。

「孤独(あるいは孤高)という言葉は、かつて、好意的な意味もあった、明治の文豪とか、孤独をまとったものは、憧れの対象でさえあったんだ。しかし現代では、すこしずつ、孤独という言葉のイメージが変わりつつあるかもしれない、だけど、君達には、孤独をかかえながら、自分の道を貫いて欲しい」とは、劇作家の小里清さんが、授業の前に言ってくれた言葉だ。

コミュニケーション至上主義? コミュニケーションがそんなに大事かっ?っていう。

他者とのコミュニケーションが、かえって、自分を希薄にすることもあるじゃん、と、最近、ときどき思う。だから、一切関わりをたちたい時もある。

また、なんで、人はそんなにコミュるんだろう? と思うし、めんどくせぇなぁ〜とも思う。
ツールに関しては、だいたい、なんで、機械とか、そんなにツールに振り回されないといけないの? と怒りを覚えることすら。



3.
それとは逆に、会いたくないヤツとあったり、送りたくもないメールを、何通もぶっ続けで、送らなきゃいけなかったり、そういうのを耐え忍ぶのが人生なんかなぁ、と思うときもある。(「耐え忍ぶ」って本気でヤな言葉だなぁ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって世のために太平を開かんと欲す…みたいな。)ケータイとか一刻も早く、ぶっ壊して、身軽になりたいけど、なれない。今日も稽古場の場所と日程を送らんとあかん。あ〜あ。

こういうゴタゴタ、イヤな人と会うのも、ある程度、余裕もって、楽しめようになれたら、もーちょい楽しく生きれるんだけど。

孤独を保ちたいと思いながら、コミュニケーションの方法を模索して、膨大な数の人と出会わなきゃなぁ、とも思う。無理しない程度に。まぁ、ツイッターはまだしないとして。

〜〜〜

こんなことを考えていたのか。

そして、ブログオブサカテの存在も今の今まで忘れていたが、そう言えば当時読んでたな。

ここに書かれてるコミニュケーション諸々に関する「意見でも主張でもないもの(タイトルから)」は今となっては、どうでもいいし、つまんない。年をとったからだろうな。

 

あ、そういえば、この感じで、日大入ってから同じような「孤独」について「他人との付き合いが自分を希薄にすることもあるし」的な持論を開陳したら「なにそれ? 中二病?」って友人に言われて、すごい反省した。ということを、思い出したよ、今。

 

あっ、それってやっぱ孤独じゃなかったから学べたことじゃん……!