まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

22歳②⑥

TITLE: スタジオボイス最終号の忌野清志郎追悼記事を読んで
CATEGORY: 思ったこと
DATE: 03/18/2013 14:38:28

いとうせいこうの「空想ラジオ」読んだ。下北のヴィレバンで買ったらサイン本だった。サイン本は返本できないらしい、けけけ。

ボブ・マーリーのリデンプションソングをYoutubeで観て、そのまま二時間ぐらい、ジョーストラマーが歌ってるヴァージョンとか、マーリー一族について調べたりしてた。

アンディモリの光をウォークマンで聞きながら、買い物へ。基本的に言ってることは、ボブ・マーリーとそう変わらない気がする、大麻だし。早く次のalbum聞きたいなぁ。


なんで何を書いても消したくなっちゃうのだろうか。
このひとつ前、二つ前、三つ前の記事だって、なんか公開してることが恥ずかしくなって、消したいなぁと思って、まいっかと思いとどまった。寝て起きたら急にはずかしくなった。

スタジオボイスの最終号を見て、思ったんだけど、やっぱりそれは、言葉の貧弱さと、言葉だけであることの貧しさじゃないか。

言葉の力だけで、壮大なイメージや悲しみを想起させる力を持つ言葉(あるいはその連なり)もあれば、言葉だけではとうてい陳腐で、右から左へ抜けていくようなものもある。

たとえば、キヨシローの言ってることなんかものすごく陳腐だし、Youtubeのコメント欄なんかで、真似してるおっさんのコメントとかものすごく、だせー。「おいらもずっと言ってきた、キチガイ扱いされたけど、原発反対! キヨシロー万歳!」みたいな、例ですよ。
かなりキモイ。まじかなりキモイ。

友達なら許容できるのは、その人の肉体や声が、想像できるからであって、だからおんなじことを言っても、有名人とか、より多くの人に肉体をイメージさせる人の声は、カッコいい。

おっさんは歌ってないからキモかったのだ。

貧弱な言葉は言葉だけではさらに貧弱で、それを補う肉体とか、運動とか、ヴォイス、振動、オーラ、そんなんがいる。だから、僕が、ブログに書く文章はかくもヘボいし、僕自身だせー、恥ずかしい、きゃーってなる。
抱きしめることも唾を吐くこともできない空間で、文字だけがちろちろしている。




友達に居酒屋で言うことは恥かしくても、恥ずかしくなかったり。
恋人が言ってることとかにすごく感動して、あとから冷静に書き写してもなんか違うかったり、その理由を探ってみても、ひどく虚しかったりする。どこにも見つからない。

素晴らしい短歌や歌詞やセリフに感動してる時、そのとき僕の脳内では、言葉とは、別の何かも同時に起きていて、(あるいは言葉によって、思考がぐるぐる起動してて、感動の数珠つなぎ、みたいな)演劇とか、するには、そういう効果の与え方をわかっていないと、難しい。

あるいは、すげー肉体とか。

甲本ヒロト(歌)詩集を見ると、まじびっくりする。
なんでこんな言葉に感動するんだろ、「毛虫」とか。
でもヒロトの声はずぎゅんと、エロっちくだったり、セクシーだったり可愛かったり、あの目の皺、嬉しそうにしかめた顔、「うぇーい」見たいな奇声。「われわれわぁクロマニヨンズ……だぁー。」みたいな、含めての素晴らしさですもんね。

だから同じことやってるようでも、言ってるようでも、やっぱ人を感動させれる技術とか、伝える技術とか、なにか、とかすげーあって、それはある程度は誰にでもあるけど、ある程度は才能容姿個性なんだろうか、うぅ〜。まぁ、真剣にそんなこと悩んでるわけではないのですが、僕には僕、あなたにはあなたしかいないのですから、武器は。

つまり、言葉だけの虚しさや、それゆえに、言葉以外のなんかの、なんかについて考えることは、めっちゃ演劇にやくだつのでは、みたいな、また当たり前のこと思ったのでした。

スタジオボイス最終号の湯浅学のキヨシローについての文。

「くるくるパーの世迷言にすんなり付き合うわけにはいかないはずなのに、いつからあんたらこんなことになってしまったのよと嘆く前に手前の脳みそを点検しておけといつも思うのは、ふいに世間は色よい返事を反古にするものと知っているからだ。
人生万事スローバラード。全世界がつくため息にああやれやれと歌で応える詩人に絶賛なんて恥ずかしくて今さらできない。
足腰立たなくなってからあえて立つ歌を聴きたかったなあと思いますが清志郎は意図ではなく気持が世界を動かすのだと言葉ではなく気配で伝えた人だった。
だから老いぼれてもポンコツでもロックンロールはロックンロールである、それは真理ではなくただの常識である。つまり死体が粉になってももはや清志郎は消滅しないのであって冥福など祈る暇があったら子供でも作れというのである。
偉人とはすべからくゾンビである。あるいはゾンビに憑依する如来である。ときどき犬であったり猫であったり蛙であったりする。
今日もまたくだらない馬鹿が自分の頭のよさを他人の言葉を借りて自慢している。保身がスマートだと思っているやつらに音楽を語らせるな。
武装するなら素っ裸でやれ。ムカつくならギターやマイクを持て、人の恋愛をなぞるな。
イデオロギーや文化ではなく歴史の水脈でもなくだからモードでもなく何も考えずに動いた体の反応で愛すること。そういうことで通じ合いたい。
そういうことは口に出したとたんにへなちょこになってゆくから歌ったり演奏したりするのだと清志郎はいわずにたくさんの人に教えた。
理論はない、分析もない、実験だけがある。それは本能でもない。なんでもない力。人によってはそれを才能と呼んだり霊能と呼んだり創造力と呼んだりする。
なんでもないってことは凄いことだ。どこでもないってことはあらゆる場所だということだ。妖怪キヨシローはいつでも現れます。世間に迷ったら、呼べ。」


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恥ずかしい問題はいまだ尽きない。汲めど尽きない。
やはり文字の場合「今のはミスった忘れてくれ」というのを会話と違って、永遠に残してしまうことも多いから、恥ずかしいのは正しい。
だから、間違ったことを言ったら、消すこともやぶさかではない。
ただし、名誉毀損などに当たらない、発言者のおれだけが恥ずかしい、不明さが煌煌と光るような文章はわざと残しておいて、後からあれは間違いでした、という方が良いこともある。
だって「かつて自分はこのように愚かなことを堂々と言っていた」という事実なんか絶対に残しておいたほうが良いじゃないか。

それを見て、おれはこんなに阿呆だったのかという事実と対面できるなら、肉声ゆえの茶目っ気やごまかしが効かないというのも、むしろ文章のメリットかもしれない。おれはこんなつまらないことを言っていたのか。
脳内麻薬に踊らされて。

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このブログに関しては、以前自分が書いたことに異論がある時は、削除ではなく、このような追記形式にしている。基本はね。