まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

11月15日の稽古について。

↑上記のタイトルを決めてから2分間……。

なんだろう、とくに書きたいことはないなぁ。

 

じゃあ死ねよ。って感じですね。

(果たしてこんな言葉は遣っちゃいけないのでしょうか、こんな可愛い書体とレイアウトで、、、おぅ、はてぶさんよう、それともあんがい懐は深いのかい)

 

しかしここは宣伝ブログなのだ。本来の無気力な人格は隠して、ガンバルゾー。

 

今日思ったこと、ここで宣い、お伝えしたいこと、

それをしいていうなら、

 

演劇は「やってる方は大変面白い」ということ。

これは、かなり、強い、真理である、と僕は直感している。

 

この真理をもとに、

じゃあ宣伝の切り口としては、どう行くべきなのか?

僕はいまそれを考えながら書いています。(あるいは書きながら考えています)

あなたはどう思いますか?

 

お茶でも入れて、考えてみましょう。

 

 

 

 

 

ちょっと考えつきました。

なぜ演劇はたのしいか(あれ、趣旨変わってない?)

 

つまり、稽古場で何かを考えながら試行錯誤するっていうこと、

あるいは何も考えずに、ただ、演劇をやること、

あるいは演劇という名目で、人前でふざけて遊ぶこと。

あるいは人間に触れることで(稽古場での会話、終了後の焼鳥、もちろん、芝居なかでのコミニケーション、共同創作行為)ハッピー、癒される、自分を知る、愛を感じる、人間が愛しくなる。全人類を愛したいようなよるだ。僕らはどうせにくしみあいくるしみおいさばらえてしぬけれど、ぼくはいまたのしい。それだけでゆるしてあげる。

ゆるし。すくい。

 

”死ぬまでに得るすべてのかなしみが

今日いっぺんに来てくれたら

わたしはこんなにもしあわせだからきっと

かなしみたちは笑って逃げていくだろう”

 

エミリー・ディキンソン(詩人。アメリカ人。女性。)

 

みたいな心境をあじわうことで、

気持ちの充足(打ち上げのアルコールや雑な食べ物によって蝕まれゆく肉体とは裏腹に)いきがいのはっけん、げいじゅつへのあい、みじかなひとへのあい、じぶんじしんのじんせいにたいするあい、きょうみかんしん、活力、ガッツを、とりもどすことができる行為だからだろう

(そしてそれはきっといくつになっても、くさりきり、さびきったかんせいだって、みがきなおすことができるのだ、おぞましいもの、うつくしいもの、ばかばかしいものに、みをさらし、みみをさらし、めをさらし、はだをさらし、はなをさらし、くちをあけて、よだれをたらし、ぜんしんをなげだして、うたれることによって、いやおうなしにうちのめされることによって、はがぬけても、うでがもげても、ちびでもでぶでも、おどれなくても、うたえなくても)

演劇が。

 

 

 もちろんそうした心境になるまで打ちのめしてくれるのは演劇だけではない。

 

しかし僕はたまさかの偶然、ほかならぬ演劇によって、真理を、得たのです。

 

(これは宗教ではない。その証拠にぼくらは「客」を呼ぶ。宗教と違って「客」は同じ信者ではない)

 

 さて、やるほうにこんな影響を与える演劇なのですが、

身もフタもなく言ってしまえば、観る方にもこういった効果があるのですね。

 

ははは。テキトーだなぁ。でも本当だよ。

いい芝居をみたときは完全に上記と同じことを考えたもの。

 

(でもやるといいよ。演劇、やればいいと思う。

もしあなたに時間と興味と行動力があるならば。と思う。提案。)

 

そのような体験を約束できるものではありませんが、

そのような体験をしながら、思い出しながら、作っているモノと、直に触れてみませんか? 肌で。

 

”僕と共鳴せえへんか?”

 

なんつーと、町田康(詩人。小説家。パンクロッカー。男性。)気取りですが。

つか、共鳴できへんことにも同等の価値が有ると思いますが、

 

暇やったら、

みんな、金をドブに捨てて、震えてみようぜ。12月の半ばに。大山にて。

 

こてんこてんの古典劇『アンティゴネ』を基にした僕らのヴァイブスに吐き気を催しながら。なんせ「悲劇」をやるので。

 

うそ。あかるく、たのしいよー。 

 

宣伝①おわり。