まわれアザラシ、棍棒よけて。

公演の宣伝用ブログ 兼 雑記

22歳④⑤

TITLE: ゆゆゆ
DATE: 05/05/2013 21:49:27

アルバイト代が入ったので少し散財しました。
まあいつも散財しているのだけど。

王子にてfoucs.神話観る。

下北にて大人の高校演劇祭観る。「河童」と「修学旅行」

芝居の感想を書くと失礼な感じになってしまう。
が、ちゃんと書けば失礼にならないのか。人によっては自分の芝居の感想とか気になってならないだろうし。
でもちゃんと書くのめんどくさいし、僕がちゃんとしてなくても誰かが困るわけでもないから、ふつーでいいか。ブログって恐ろしい。野放しだ。

大人の高校演劇祭の最後の多田淳之介Ver.修学旅行が面白かった、ポップですごく見やすかった。そういうのすごい憧れる! でもなんだかラストの方に物足りなさを感じたのも事実、期待が大きいだけに。絶対、フツーに終わんないっていう、やってくれるぞーっていう、変な期待があるだけに。だった。役者陣が素敵、おおーって感じ。大人だぁー、おおぉぉーっって感じ。
大人になることが、汚らしい、汚らわしい、ダメだわ不潔、疲労、腰痛、みたいなのに対して、大人の方が面白いんだぜぇ、って湿布貼った首捻って、ヤニまみれの歯の隙間から言われる感じがたまらん。打ち上げは絶対盛り上がるんだろうなって感じというか。子供は寝る時間まで起きて遊んでる感じというか。

でも「日本!」が出たのがおおって感じだった、翼をくださいはなんかフツーだった。なんだこの感想。

「河童」も見た、久々に見た。
しかし、高校のときより、テーマ性的なものが、より一層苦手になった。なんでだろう、感性が摩耗しているのか。共感性が疲労してるのか、想像力が死んでるのか枯れてるのか。全部そうだろうけど、直接的な表現に対する、わけのわからない嫌悪感がある。自分でもつかみづらいけど冷めてる、が、うまいこと騙してよ、って思うから都合のいい冷め方。呼ばれるのを待ってるけど、呼び方に気をつけてね、みたいな、ワガママだ。笑いたいけど、上手いこと笑わせてね。泣きたいけど…

会社に置き換えているのに、ひどく子供じみた演技、行動をするのは、なんでなんだろう? 寓話っぽいからリアルリアルでないは全然気にならないけど、単純に行動が、見た目、役柄に不相応に見えて違和感。

しかし、TJ.Verが楽しめて「河童」が楽しめないのは、作品のレベルが、とかよくわかんないことじゃなくて、属している、どっぷり浸かってしまっている、文化的なものの違いかもしれない。
よくわかんないクラブっぽい音楽が常に流れている芝居に違和感を持つ人は絶対いるだろうし。
僕は最近、そもそもよくわかんないクラブミュージックどころか、リズムがあったらなんでも気持ちよく感じてしまうから、もう完全にどっぷりだ。よくわかんないやつに。

馴染みの方を、贔屓の方を、応援してしまうのは、なんかどうあがいても、ある。
ホントはいろんな見方をできた方が人生お得な感じがするのだけど。偏狭である。

これが、老化か。

しかし、二騎の会、大好きなので超楽しみ。

斎藤美奈子のポップな文学評論のまえがきに文学の楽しみ方? みたいな序文があって、うろ覚えで書くと、(だから嘘かもしんない。)

・意味を求めるのはやめましょう。
・作者の伝えたいことを探すのはやめましょう(国語の授業で植えつけられた悪い習癖です)
・いろんな読み方があることを考えましょう。
・遠くを見てみましょう(面白くない、わからないものでも、歴史、文化、背景を知ることで全く違う読み方ができてしまうことって多々あります)
・何を書いているかより、どのように書いているか、の点に注目してみましょう。

うわ、めっちゃうろ覚え、立ち読みやし。たぶん斎藤美奈子こんなこと言ってません。こんな言い方してません。
まぁ斎藤美奈子の意見であれ、僕の意見であれ、読み方の一好みであって、人によって全然分かれるところでしょうけど。

宇野常寛&更科修一郎の「批評のジェノサイズ サブカルチャー最終審判」で、「何を書くか」に対する、「いかに書くか」文体で勝負、みたいなブームは終わって、これからは骨、骨格、プロット、物語の強いものが求められてるのでは、みたいな説を最近、立ち読みしたけど、まじ説って、説だから、ブームはブームだから、結局は好みなんだろうなぁ。
だから斎藤美奈子の好みとは違う人もいるだろうけど、僕は結構斉藤さんの読み方好き。
僕は、物語より、文体が変な奴が好きかも、でもあくまでわからん、モノによりますね、好みって結局、あるけど、詳細に言わないと、なかなか伝わらないですよね、個々の違いがめっちゃあって、面白い! 死ぬほど合わない奴とは合わない!

でも好みとは別に、レベルってあって、当たり前だけど。自分の嫌いな方向でも、レベルたけぇ、いや好きになったわちょっとてのも、好きな方向のハズなのに、なんとなくわかるのに、レベルひきぃー、少しがっくり、嫌いになっちゃうわ、っていうものが、あってあってたまらん。ケチだからいいものだけ見たいのに。

TJ観たら久々にテンション上がった、やっぱり手堅いのは手堅い。そしていいもの観たほうが断然ハッピー。
でも、期待値が低いものを観るのって、ハズレがめちゃくちゃ多いだけに、当たった時の強烈な嬉しさがあって、やっぱり、期待値とか偉そうなこと(は、もちろんあるけど、)ばかりに左右されず、できるだけ色んなものみたい(金があるときは)でも金ないもん。三条会の三人姉妹超観たい!

感想書くと傲慢になるけど、隠してどうする、すごい傲慢なんだ、偏狭なんだ、と自覚してきた最近。
厳しいというより、ツボがずれているのかもしれないけど、そら仕方ない。
や、でも厳し目なのかも。無理してるのかも、無理して厳しいのかも。嫌な奴だ。

〜〜〜〜
22歳のやつに「これが、老化か」とか言われても、じゃあ今のおれはなんなんだよ。っていうのは全国津々浦々の29歳の人が思うことでしょうが、そのときはそう思ったんだからしょうがないよね。つか、20歳になったときも思ったし、なんなら18歳のときにも「最近、道路を見てて、走行中の車のタイヤ下に飛び込んで死にたいとか、空を長いこと見すぎても泣いちゃったりとかしないなぁ、老いたな、感性鈍麻したな、安定しちゃったなぁ」とか思ってたもんなぁ。老いって感じるだけ無駄かもしんねぇ。別に老いたから反省して、若い頃みたいに行こう、とはあんま思わねぇし。戻りたくねぇし。っていう思いもベタで。年を取りましたね。年数分。

〜〜〜〜
好みとレベルの問題は、いつもある。
高校演劇のとき、顧問の先生がたくさん芝居を見せてくれた。(主に高校演劇だったが、他県でやってた芝居とかをたまに遠征で連れて行ってくれて、帰りにうどんとか食わしてくれたりした((徳島の一部の地域の名物、たらいうどんとか、香川のうどんとか、うまかった……!)))そして、見たからにはとやたらと感想を言わせる方針の部活だった。ときには感想を書かせてブログにUPさせたり
全国大会や四国大会、近畿大会などで、面白い高校演劇をたくさんみた。
つまらないのもたくさん。高校演劇だけではなく、中学演劇、大学演劇など、くだらない大学演劇もあれば、ものすごく大人びた基本もあり華もあるような中学演劇もあった。
色んな芝居があることも学んだ。当然の顔して葉っぱが喋る(葉っぱのフレディの劇化とかあった。)のもあれば、普通の学校のなかに不条理劇みたいな形で河童が出てくる芝居もあった。(青森中央の『河童』)高校が舞台の三一致の法則に則ったしっとりした芝居もあれば、子供から老人までの時代を高校生が演じ抜くものもあった。セットがないものもあれば、教室を丸々ひとつ再現するところもあった(生徒が工事できる、工業高校などの作品に多い。窓にガラスがハマってたり、教室のあの横開きのドアが再現されてたりする。リアル。)
上にたくさん人の乗れる3階建ての工事現場みたいな舞台もあれば、山を再現している高さのある舞台もあった。鬼とか出てきた芝居な気がする。
リアリティのあるセットの強みも感じれば、抽象的な舞台や、何も無い舞台で、次々と場面を転換する演出の巧みさに唸った舞台もある。
すごく大人数で殺陣を繰り広げ、船や炎や波などを役者が表した戦国合戦絵巻があれば、たった一人だけ舞台に立ち、語りと身振りだけで賞をさらっていったような猛者も見た。

選曲センスが最高の芝居、その芝居で始めてハマった音楽家がいたり(倉橋ヨエコの『楯』を冒頭とラストに使った芝居があった。倉橋ヨエコとの出会いは大音響だった。なんやこの曲! すごいやんけ! と思った。)音楽と台詞の組み合わせで情感を煽る手法とかもめっちゃ実感した。

三一致の法則を上手く使ってる舞台には何とも言えん、しみじみした演劇の良さを感じたし、若干シュールな唐突に入る踊りとか単体で聞くとワケの分からないようなモノローグとかが上手くハマったときの、あの説明できん最高な感じとか。
3年間で何百本も見て、そのうち、始まり方から、ああこのパターンか、と思いながら見始め、やがてはその思いを裏切られて惹き込まれたり、逆にすべてが予想通りで退屈しつつも悦に浸ったり。


見終わった後すぐに唾吐いた芝居もあれば、椅子から立ち上がれずに息さえも吐けないような芝居もあった。
なんでもありで、全部違った。同じような手法やアイデアでも、まるで正反対の芝居が度々あった。
思うにこのときたまたま観た成功例が、以降、俺の中でアリなものとなり、このときたまたま観た失敗例が、以降、俺の中で駄目なものになったのかもしれない。それは全て偶然だ。たまたま見られなかった、そのやり方の名作も、たまたま見ずに済んだそのやり方の駄作もあっただろう。
だけど好みは醸造された。その好みとはなんと必然性のないものだろう。根拠はあるが、その根拠はすべて偶然の賜物だ。