昔風のブログ
ひさびさにブログを書く。
昔、今から10年以上前、ヤプログで駄文をがんがん書いていた、そのころと全く同じ精神で書く。
つまり、誰も興味のないであろう、自分の精神生活のことだけを書く。
今ブログって言やぁ、金稼ぐために、PV数を稼げる話題とかキーワードとかを使って、記事の最後にスポンサーの宣伝とかリンクとかハメて副業的な収入を得る手段、っていうイメージで(あと純然たる仕事の広報や報道のためのブログとか)
じゃあいま書こうとしている、ブログ=日記みたいなものっていうおれの第一印象は、一体いつの時代に培われたものなんだろうと考えてたら、色々と思い出した、
そもそも高校の演劇部の活動報告が、おれのブログの原点で、それから先輩が日記的に書いているブログを目撃して、自分も真似して日記的なブログを書き始めたのだった。
そこに特に意味はなかったし、自分に何が書けるのか出力してみよう。できるだけ、しっくりくる文章で。ということ、それだけが目的であり、書いたら即DONE !で。何も達成してなくても書くだけでよかった。問題はしっくりくるかだけだった。
その感じを、いま一時的に再開する。
◎年月の残酷さ
いま、32歳だ。ゲバラと川端康成(あと菊地成孔)と同じく6月14日になるたび一つ年を取る。32歳になってからまだ一月も経ってないけど、気づけば10年経ってるだろう。それか死んでるか。
思えば暗い30代だし、もっと思えば20代の後半も暗かった。
暗いつーのは、劇的なことや美しいことや、素晴らしいことが僕自身には、あんまり感じられなかったってことで(感じてないだけで、日々、それは恩寵のような出来事だらけだったに違いないけれど)
いってみれば不感症だ。感じられすぎて暗い、ということもあろうけど、どちらかというと、それは感性の鋭い人が通る道で、鈍な俺はほとんど何も感じず、飯を食い、糞をして、オナニーきめて、ぬるぬると年を取っていった。(まったく、ゲバラと同じ月、同じ日に産まれたとは思えねぇ)
いくつか戯曲を書いたり、公演に関わったりもしたが(それだって恩寵だ)それだってぬるぬるしていた、人生に何か確固たるものが積み上がっていくみたいな感覚はゼロで、ま、感覚っていうのは主観的なものにすぎないから、もしかしたら、積み上がっていく、なんて全部妄想だから、この世の摂理をただ正確に感じ取っているだけかもしれないけれど、まじで一切は過ぎゆくし、無意味って感じ。
さりとて死にたくもなし、つーか、むしろ、いっぱい生きたい。休みが欲しい。
そういえば、癌かもしれないって、3回ぐらい医者に言われたのが去年から今年にかけてで、半年に一回検査をする。次の検査までもう一月切ってる。
たしか去年公演をしているときに、なんの癌かしらないが、「疑陽性」って言われて「陽性だったら癌ですけど、どっちかわからない状態です、もっかい検査することを推奨します」ってなって、それから2回くらい検査して「今回はいけそうですね、まだ癌って言い切れない感じです。じゃ、次は半年後にもっかい検査しましょう」って言われた。
おれは酒はあんま飲まないし、タバコもやんないし、毎日だいたい7〜8時間くらい寝るし、野菜も好きな方だけど、昔から虚弱体質で、すぐ疲れて、なんだかんだで長生きはできないんだろうなぁーという気がしている。不注意だし。
でも許されるなら1000年くらい生きたいと、基本は思っている。
(まだ読んでない漫画や本*1がいっぱいあるけれど、じっさい、それらを読めないまま、死ぬしかない、死んだ後も、素晴らしいものがたくさん生まれてくるのだろうけど、自分はそれを知ることすらできない、と思うと、切なすぎて、永遠に生きたいと思う。)
まだ目立った苦しみが体になく、老いや、友人知人の死などを知らず、みんな元気で、ご飯が美味しく、たのしく、美しいものばかり見てきている、今のうちに、眠りに落ちるようにすっと、この世を去りたいとときどき考える。夜、布団の中とかで。
未来が常に怖い。
ほんとうにビビりで、心臓がちいさく(実際に、スモールハートというやつで、体の大きさに対して心臓が小さい。疲れやすさの原因らしい)毎日いろんなことにビビっている。ビビらない人は気にも留めない意識もしないようなことで、いらぬ思考を堂々巡りしている。
(でも、ぼくよりビビリの人はぼくが意識もしないようなことで日々神経を擦り減らし、くたびれているんだろうなと思う)
*1:おまえは漫画は本じゃないと思っているのか
31①
やあ久しぶり。
今日届いたばかりの新しいMacBookAirでこのブログを書いている。
ここ4年ほど家にネット環境のないまま過ごしていたけど、先日(1/21)ネット開設の申し込みをしたので、あと1、2ヶ月するとネット回線が部屋にくる、世界と繋がれるようになる。
でもまだ繋がっていないので、この記事はファミレスで書いている。
ブログを再開しようという意志がある。
ネットを部屋に入れた理由の幾許かは、ブログ執筆のため。
あとはネトフリやアマゾンプライムなどのサブスク鑑賞のためがでかい。
なぜブログが書きたいかというと勉強したいからだ。
読むだけでは知識が身に付かないし、そもそも読むための動機づけとして、ブログに書くことが有効だと思った。
ということで、もう少しして、ネットが導入されたら、いよいよ書いていきたい。
ブログに何を書いていきたいか。
・勉強系(自分以外のことについて)
・自分の考えや経験のアーカイヴ
ちなみにひとつ前の記事までずっとたくさん更新していたヤプログの記事の移行計画だけど、
ヤプログのデータを文書化したものが、前のMacがお亡くなりになったことで失われてしまった。残念ながら(←ぼくがね)ぼくの以前のブログの記録は24歳までで打ち止めだ。
昔描いた記事を貼り付けて、今の所感を付け足すのは面白い作業だったけど、
いかんせん部屋にネットがなかったこと、
ネットのある環境で作業するときは(このファミレスみたいな)他に優先しなければならない仕事がたくさんあったせいで果たせなかった。
残念だ。いつかサルベージしたい。
ぼくの書いた文章には、ほとんど価値がないけれど、それでもただのジャンクとして、並べて置きたかった。過去の愚かさを閲覧できるようにしたかった。
それではまた。
これからロー撲活動のためのライン・ミーティングだ。
24歳⑧
TITLE: 銭湯は偉大であるゆえ
DATE: 02/23/2015 00:32:19 読書、
読書についての本を読む。
もっと本を読むために。もっと楽しく暮らすために。
完全に趣味として。
完全に趣味として腹をくくって、本を読んだり、いっぱい映画見たりしたいものだ。
適当に惰性でするのは、なんだか煮え切らなくて楽しくない。
一方怠けてしまう。怠けてしまうのは、たぶん、色んなものを読んだりして想像した推測だけれど、
ツボにハマっていないからだ。
もちろん怠けている状態はかわいらしく、すばらしく、健康的で人間的な態度だ。
しかし怠けていない状態もなかなか可愛い、それにけなげだ。
そんな状態(なまけてない)になったことはないから、いわば、レアだ、レアモンスターは捕まえなければならない。もう12年ほどポケモンはしていないけれど。
で、そも、大学の長期休みが延びてきた今、俺はわりと、自分を意図する方向の状態に、誘導、少しでもその濃度を高めている。
俺は少しずつ、よくなっているような錯覚を覚えている。
寺山修司は今しかないと言った、今の自分が一番素敵でないといけないから。
過去の自分は快感を得ることも出来ないし、本当に反省したり、苦しんだりも出来ないから。
今日俺はおフロでボルヘスを読んだ。短編集「伝奇集」から「バベルの図書館」という短いお話を。
恐るべき濃度だった。
俺は初めの2ページでびびり、10ページ程ではまり、震え、無性にお風呂の鏡が怖くなり(※怪談ではありません、階段は非常に出てきます、もはやギャグというか、奇遇ですね。)
残り2ページばかり残す所で、かなり読んだぞ、という感じがしたから、辞めた。
次また頭がリセットしてから続きを読みたいと思って、今日はうまうまと就寝しようという腹なのです。
このように、最近の俺は、かなり読書がうまくなってきたと思います。
「必読書150」を読む。興味のある人はAmazonで調べたり、図書館で手に取ってめくって欲しい。
(お金のある人は買ってもいいと思うけれど)
昔むかし「文学賞メッタぎり」というシリーズを知って、はまって、ばまりこんで、ファイナル以外全部持っているし、ファイナルもブックオフで立ち読みしたのだけれど(でも俺は立ち読む、つーか、近頃はブックオフに入った時点で8割なんか買っているからね、で、この一週間で4回ほど行っている、しぬ。)
そこで、だけじゃないのだけれど、読んだ本、知った作家が、いっぱいいて、本当に嬉しい。
いっぽうで「必読書150」はアカデミズムの側面もあり、ベクトルが大分違う。
で、私はどっちのベクトルも憧れる、興味がある。
と、いまの、現在の所は思っている、だから読みたい。
「必読書150」わりと、むずっぽい、タイトルも多いけど、全部読んでもいいのだ。
まぁ、実際は興味のあるものを(家にあるものから)順に当たっていって、ダメだったら次、とか、まぁ10年20年単位ぐらいで、だらだらやっていけばいいのだけの話だけど。(なぜって、完全に趣味だからね、趣味を自分に与えられるっていうことは幸運だ。)
まぁ、読んでいるものもわりとあるし。
わりとが、けっこう少ないのだが。
で、で、で、だ、すげー、レベルのアレな話をするのだけれど、
やっぱり、知らないことはしりたい。
色んなことを知った、見てきた、ということは、生きていく上で、楽しく生きる才能のない、楽しい思いをいっぱいするための才能の薄そうな私にとって、けっこうありな方法だと思う。
もちろん、読んだ本は全て忘れてしまう、くらいの気持ちでいるし、しょうがない、それはなまけてゲームをしてしまうぐらいしょうがないことなのだけれど、ゲームだって素晴らしいじゃない、って、感じ。
忘れる、という事象も読書にまつわる、興味深いテーマだと思う。
それに、本を読みすぎたら、バカになるって説も、いっぱいある、「読んでいない本について堂々と語る」方法でも、現物を読んでないが故に、多様な意見を出せる学生の例や、(先生の話を聞いているだけで、かなり、考えられている)むしろ、違う文化を持ち、本についても、その文脈の背景にも知識が無いがゆえに、「ハムレット」の重大な問題は、クローディアスと父ハムレットの母親が同じかどうか、という知恵を出してくれたアフリカの部族の長老の意見が、ハムレット研究のどの意見よりもラディカルで急進的かもしれない、みたいな、まぁ、知っていることをくちゃくちゃこねてもさぁ、みたいな。君の意見まわるいね、みたいな、
ショーペンハウエルも「読書について」で、(これもブックオフで立ち読みした、5分も読んでないけど、いい本だと思った、つーか、勉強なった)本読み過ぎるとバカになる説、言ってて、なぜかっていうと、自分の頭で考えなくなるからです。
これ、100パー正しい。し、100パー間違っている。
正解は人によるだと思う、けど、おれに関してはかなり正しいと思う。
本を読んで、なのか、なにか、知っているつもりになっているせいで、めっちゃ頭が固くなっているような気がするし、本とか関係なく、魅力的だな、って思う人の意見とかは、わりと本だけじゃない経験的なことから出てたり、直感的な(それまでのそいつの人生にあった、脳の形に沿ったあれこれから導きだされた)とこだったりするじゃん?
おれ、あんまり、そういうの、無い気がして、まぁ、あるかもしれんけど、こーやって卑屈になるのも、いつもの思考て私的な型だけど、まーちょっと見つめてみたいよね、どう付き合うか、本と。
知識は道具だという。それ単品で、すげー自慢(まぁ、半端なかったら出来る気もするけど)
つーか、そもそも自慢できるのは、だいたい知識じゃなくて、なにか行いだと思うし、
その行う、ための、一つのツールで、すごく魅力的にそれを使えている人もいるツールなのだけれど。
かといって、これを割と冷たく捉える、道具を、かうぞー、みたいな感じじゃなくて、
どう使ったら面白いか、っていう、良い型みたいな、回路、みたいなものを、知りたいよね。
だから、そういう本を読んでもいいのだけれど、たぶん、本当に良くなったかは、実践で分かるんだろうな、
そして何回も失敗して、まぁ、失敗し続けながら、エラーするためにトライしながら、なんだろうな。
ブログも一つのトライではあるのだが。
力、入ってねぇなぁ。
東大生とかやっぱりうらやましいと思う、
これはもちろんフィクションの東大生、というキャラだ。
なぜなら、東大生は東大生である前に人間で、
ある種の能力をはかる試験を、なんらかの事情で突破した人間だ。
そして俺は、そういう、東大の試験を突破した人間(東大生)
について全く詳しくない、
だから、実際の東大生のことは、(俺がもし東大に入って、おれはこうだった、っていうぐらいしかわかる方法は思いつかない、けど、そんなことは、あんまり興味ないなぁ)わかんない、し、めんどくさいから、例として、キャラの東大生(イメージ)だけど、
やっぱり本とか、たくさん読んでいるんじゃないか、
やっぱり数学とかできるんじゃないか?
本当の所は知らないけれど、うらやましいのは、(わたしの想像力が足りないから)
学力があるってことじゃないか。
色んなことを知っていたら、世界の見え方が違うはずだ。
(知らなくても違うはずだ)
知らなさも想像できれば、二つの世界が、いっぱいな世界が見える、それって、すごいじゃん。
理系な世界、
細胞について想像しながら眠る毎日、
新しいMacの商品のできに嫌みをいう夕べ
国会中継に突っ込む日々、
すげー。
一度しかない人生だ、って言う所がキーですよね。
色んなこと知りたい。
そして私は寝る。
今日は早く寝なきゃと思って、永くお風呂にはいったのだけれど、
本当は昼、今日は銭湯に行こうかな、と考えていた。
でも、ケチってしまった。
お風呂でつくづく、銭湯とは体の状態やおそらく、出たときの状態がまるで異なるんだろうなぁ、と思って、
「お風呂と銭湯はまるで別物なのだ」とつよくつよくおもった。
あと町田康の「人間小唄」読んだ。モンキービジネスも読んだ。あと、池澤夏樹の「世界文学を読む」の「アンナカレーニナ」を読んだ。(トルストイはドストエフスキーと無意識に比べられて(大体の人がドストエフスキーのが面白いと思っていて)可哀想だと思ったけど、よく考えたらどうでもいいうえに、名前すら残ってない人とか、ツルゲーネフとか、チェーホフはどうなんだって話しだし、比べることも、あんまり意味ないなぁ、みたいなね、ねなきゃ。)
〜〜〜〜
例の如く散らかっている記事だ。
こちらの追記では上記を読んで気になった
「趣味としての読書」の「趣味として」ってなに?
ということについて書く。
24歳⑦
TITLE: 属性がつくのはイヤだー
CATEGORY: 日常生活
最近ちょっとまずい。
ディスクユニオンが新宿にいっぱいあることを知った。パンク館という所に行ってみた。嘘みたいに細長いビルの5階かそこらにあった。エレベーターに落書きがあった。デトロイトメタルシティみたいにベタな感じのモヒカンやゴスロリ系の人ばっか居たらどうしよう、まず店員が……入れないかもと思った。しかし向こうも商売なのだ。ここで入らない人生は嫌だと思った。
店員はかなり普通の好人間であった、好若者たちだった。見向きもされなかった。にらんだり床に唾を吐いたりしなかった。
そのとき居たお客は、むしろなんというか、へなへなな感じだった。弱そうだった。俺も弱そうだ。
つまり何がいいたいというと、そのあと、本店、中古買い取りセンター、よくわからんない店舗、シネマ館、5件ばかり回ったんだ。本店の地下には、漫画太郎とか根本敬による壁画があって、ここが「アングラの巣窟だ」みたいな雰囲気を醸していたのに、中には普通にモモクロのCDとか売ってたんだ、モモクロをバカにするつもりなんてないもも。だってよくしらないもも。とにかく健全だった、価格も健全だった、まぁその本館では何も買う気がしなかった、
まぁいいんだ、話の要点はそこじゃないんだ、
俺はシネマ館が気に入った、一番コンパクトで、なぜかボブ・ディランが掛かっていて、そこで、映画のDVD百円均一セールのことを知った。それは2月12日に行われた。このシネマ館で11時から整理券が配られる(整理券?)わからんけど、これはいいなぁと思って、当日、下北で観劇する前に、向かったんだ、列に並ぶと、皆大きなリュックを背負っている、長髪の人のおっさんや短髪のおっさんでいっぱいだった。整理券を持って自分の順番に沿って、すると、持っている整理番号と並んでいた場所が違ったらしくて、おっさんに注意されたんだ、それはいいんだ、俺が悪い、でもすごいと思ったのは、即座に俺の持っている整理券の番号を把握して、それを指摘したおっさんのなにかすごく場慣れした力だったんだ。
そう、そこは場慣れしたおっさんたちの巣窟だった、セールが始まると、みんな商品にしか目がいかない。エサを前に思考を捨てたアニマル、資本主義の残飯を漁る豚だった。俺もそうだ、味なんて気にしない、気づくと32本もDVDを抱えていた、だって3200円だぜ、32本の映画が。著作権が切れて、ダンボとバンビ同時収録(どっちもドラッギーな映画だってことは俺しってる)のやつとかもあったから、実際40本くらいだ。ガム一つ追加する感じで映画が買えるんだ。でもこんなにたくさん籠からはみ出してまでDVDを買っている俺はアホに違いないし、絶対ヤバいと思ったら、みんな籠からはみ出してたんだ。
おっさんおっさんおっさんおっさん、一人だけ若い女の人が居て、俺はすごくほっとしたんだけど、その女の子に対する「君、よく来たね」みたいな感情は紛れもなくおっさんそのものだった。
まだこの話は続くんだけど、じつはまだ、要点っていうか、これが言いたいがため、みたいな結論が言えないんだけど、さらに思い出したのが中野の件だ。そもそも俺は最近中野、高円寺、阿佐ヶ谷辺りに自転車でよく行くんだけど、そもそもディスクユニオンを漁り回っているのも、中野店のB級品でかなり好きなものが集まったからだったんだけど、あと池袋店で買ったeelsにドはまりしてから、そのアルバムを探しているからなんだけど、とにかく中野を歩いていたんだ、早稲田通りのBOOKOFF経由で、中野Diskユニオンを目指して、
すると途中寄った商店街の、薄暗い路地の八百屋みたいなレコード店が、セールをしていた。
プレートを掲げたおっさんが、往来の僕たちに対して、「ひやかし大歓迎」「暇つぶしにいかがです?」八百屋くさい胴間声。
でもよぉ、CD・レコード全品百円だって言うじゃないか。言ったんだよクソが! で、気づいたら2時間近く経ってた。
ドラジュビスのキリンのアルバムとかあって嬉しかったし、よくわかんねぇポストロックをジャケ買いして、まぁまぁいいやつだろうなぁと思って、帰って聞いたらやっぱまぁまぁいい感じで、いい思いしたけど、
レディオヘッドの「キッドA」と「OKコンピュータ」とか絶対アマゾンで1円なんだろうけど、送料込みだと258円だから、(覚えてしまった)100円は得だなぁみたいなワナにハマってた。
俺の、俺の知識が足りないせいで、この中に眠っているずいぶん良いものを見逃してしまうんだろうなぁと思いつつ、ワゴンの中をぼぉーっと見てたら、突然おっさんに話しかけられたんだ。
「場所交換しよ?」
知り合いでもなんでもない人に語りかけるにしては、すごくフラットで、場慣れした語り口だった、俺はその瞬間わかったんだ、俺はいまヤバい世界のトバグチにいる、だからおっさんは話しかけてきたんだ、今ならまだ引き返せる(あとレコードとかに手を出したら人生がしぬ)もうなんもかんも放り出したいと思いつつ、放り出すことも出来なかった俺は、CDを7枚買った。ラーメン一杯分のジャンク。
俺はヤバい、このままじゃまずい。
全然関係ないけど、今日もジュンク堂に3時間居た。全然居れる。途中イス座ってメンタルヘルスの本を読みきってしまったから、体は疲れてないけれど、時間が早い。楽しいっちゃ楽しいんだけど、やばいっちゃやばい。
あと、全然関係ないけど、最近散歩が楽しい、やばい、たぶんこれは反作用だ。散歩しているときだけジュンク堂やディスクユニオンやBOOKOFFやAmazonのことを忘れられるんだ。
服屋に行く10万分の一の気安さで、ディスクユニオンに入れるようになった俺には、確実に、なにか良くない属性に染まりつつある、まだまだライトだが。人生が、人生の危機だ。はやくなんでもいいから地に足着いたバイトをして、服とか買うんだ、髪とか切って、眉毛とかやってもらって、綺麗な服着て、猫背直さないとヤバい、
やばいぞー。
ま、楽しいんだけど。
あと、メンタルヘルスの本によると、
ヤバいときは呼吸が浅くなって、体も固くなってるから、
腹式呼吸とストレッチがいいらしいっす。
急にされると怖いね。
あと、イライラしたり、テンパってる自分の状態を、まず肯定するんだって。
ストレスを感じている自分を許す。対処はそれからー。
〜〜〜〜
なんてことだ。
結局おれは今、高円寺と阿佐ヶ谷の間に住み、
レコード、CD、DVDや本を扱うお店で働いている。
でもまぁ、それですごく属性がつくとも今は思わない。
レコ屋には色んな人が働いているし、お客さんも色々だ。
音楽好きなどの共通点はあるかもしれないけれど、みんな違う。
まぁ、似てくるところもあるかもしれないけれど。
お客さんにも従業員にもオシャレな人が多いけれど、僕はそんなにオシャレになっていない。未だに服の10〜20倍くらい本やCDに金を使っている。5千円くらい平気で本やCDを買うのに、なぜか3000円の服や靴を見送ったりする。高円寺にはめちゃくちゃオシャレな古着屋さんがあるのに、まったく入らねぇ。
なんで高円寺に住んでるんだ?
A.職場が中央線沿いだから。
24歳⑥
TITLE: 喋ることも書くことも、かなり難しいことだと思う。
DATE: 02/08/2015 21:53:05
私はどうでもいいことを永延と喋り続ける。
それは脳がそういう気の散りやすい、落ち着きのない形をしているからだと思う。
でもいくら脳がいつもイライラしてて、独楽鼠みたいに思考を散らかしているからといって、それをそのまま、お口から垂れ流す必要はないはずだ。人間なら。
人間、頭に浮かんだことをそのまま喋ると、やばい。
でもそれに似たことをなぜかしてしまう私は、やばい。
脳の形に善悪はないけれど、そういうわたしの行動の不利益を受けるのはわたしだ。なんかそれって超悲しい。
つぎつぎと興味の対象が動く。
一所に落ち着かない。
それはあらゆるレベルで言えることで、会話以外でも、
将来のビジョンを一所に定めることができないこと、
いらないことばかりして、そういうビジョンに沿って行動できないこと、
なんてのは、わりと致命的に悲しい。
他の人だって脳はいつでもぐるんぐるん活発に動き回っているはずだけど、いらないことはきちんと省くという機能が備わっているのだ、たぶん。
そこで改めて思ったのだが、
この、文章を書くというのは一つの対処法かもしれない。
書くということは削ることだ。
よい文章を書くためには削ることが不可欠。構成もあった方がいい。
要点を定めること、できれば明確でクリアな要点を、
それを過不足なく伝えること、
その上であっていい範囲の逸脱、
頭の使いどころはいくらでもある。使いようも。
ところが私の場合、書いてるうちに要点を見失ったり、それどころか近ごろは要点自体がないまま文字数のみが進行していたりする。ふと浮かんだどうでもいいことは次々と無検閲で挟み込み、結句おんなしドツボにはまって、ネズミの回転運動みたいな、いつものー、チン! になってしまい、おいしくない無内容がまた一つ誕生する。お好みでそのあとに言い訳(何に対するものかも気まぐれ)が付け足されたり、どーでもいいよ、もう! こんなの飽きたよ!
かように割と致命的な疾患を抱えている私の文章。つーか私? 危篤?
(言語能力の集中治療室とかあればいいのにね)
しかしそれはそれでも、話すよりは直し易いのでは? と思う。
書いた端から、
あるいは中座し、コーヒー片手に見直してみることで、
他者の視点を持ちやすい、文字に頼れば、少しずつでも進歩していけそうな気がしないでもない。
文体だってもっと色々ある。
時と場合によって「容量」「用法」を変えられるのが大人であり、知的な人間の在り方だろう。あまり知的じゃない方の人間も、人間ならば多少知的なはずだ、永延と車を回すネズミより。
喋るときもほぼ同じ感じだろう。
頭を使うのだ。ゆっくりでもいいから。回し車に行くな。鼠じゃないなら。
そういう能力も身につけた上で、
いつか喋り尽くし、散らかし回ることが、なにかしらいい影響を与えるシチュエーションに出会えるかもしれない。そのときはしめた、とばかりに喋り倒せ。しかし冷静に考えて、きっとそんなに多い機会ではない。話すときは、とにかく、周りを見みるがいい。きっと書くときに比べて、見ることも、聞くこともより大事だろうから。
まずは書こう。
日記よりもう少し表現の改善を意識できるブログは、そういう意味で有り難いはずだ。
頭を使おう。もちろん喋るときもそうなんだが、がー。
〜〜〜〜
前の記事に続いて、ブログを通して書くことと向き合うことで成長したい、的な結論がついている。このような「結論つけ癖」は昔からあって、善し悪しだと思う。
台本に関しても昔友人から「おおしまくんはまとめたがるよね」という有意義なアドヴァイスを頂いた。
ものすごくクリアで新鮮な結論とかならいいけど、むしろ、いかにもとってつけたような、誰でも5秒で思いついては捨てるような凡論であることが多い。
落語みたいに下げ(オチ)をつけることが様式美なわけでもないし、人生は、作品は、文章は。
なのでとってつけるような結論は入らないと思う。
結論を出すことが必要な文章以外は。
と、また書きたいところから書いたが、この文章で結論にいたるまでに出てきた「思いついたことを、検閲せず、とりとめなく喋りすぎてしまう」「頭を使わず、だらだら喋ってしまう」ということに関しては当時切実に悩んでいたことが思い出されて興味深い。
学生時代もそうだが、わけても一番辛かったのは社会人一年目、新卒で入った会社時代だ。パワハラ気味な上司(当時もそう思っていたし、今でもそう思うけど、その人はコミニュケーション能力に問題があった)に「要点だけを喋れ」「考えてわからないことだけ聞け」という正論を頂き、
ついには「君は文章だととてもわかり易いのに、喋ると何を言っているのかわからないから、これから質問や相談はまず文章にまとめて送ってくれ」という指示をくれた。
正論だと思ったので悩んだ。なんで俺はこうなのかと思った。
おれはADHDだ、と上司に言ったら、病院にいくように言われた。
(花粉症で鼻水が止まらなかったときも病院にいけと言われた)
それは入社3日目だった。上司は詐欺だと思ったに違いない。だって面接の時はそんなこといわなかったし。そうは見えなかっただろうから(だから採用したと思う。そういう人だ。)
おれは病院に行けば頭が落ち着く薬を貰えるのだろうなぁと思ったが、一度たりとも行きたいと思わなかった。おれは卑屈であったが、自己愛が強かった。件の上司には「ネガティヴなのにプライドが高い」「きみ、自己評価高いよね?」などと言われた。
その通りだ。おれはおれの個性が好きだからそれを変えたいと思わなかった。
あるとき、演劇の制作をする会社で働いている後輩が、当日制作を募集していた。
就活をして、就職して、お金も無くて、演劇からずっと離れていたから見たかった。
応募した。お金はもらえないが、タダで見れる。
前から見ていた劇団の、ちょうど見たい劇だった。
見て、終わって、パンフを片付けているとき、上司に病院に行けって言われた話をした。
「え、それってパワハラですよ。」
と後輩は言った。
ピザパーティに参加した。仕事おわりに。学生時代の友人と会うのはひさしぶりだからウキウキしていた。10時には間に合うと連絡して、練馬まで電車で行った。
上司の話をしたような気がするが、他の人が何て言ってたかは覚えていない。
だって、どうでもいいことだし。社会には色んなクソ野郎がいて、クソを垂れている。
そんなクソ野郎はクソであること自体が可哀想でもあるよね。というような話はたぶんしていない。俺は勝手に冷蔵庫を開けたりして、パーティ会場の家主を困らせた。
落ち着きが無く正しくない迷惑な野郎であることが楽しかった。
終電間際に帰った。皆でわらわらと駅まで向かった。
高校以来の友人とあった、もちろん仕事の話はしない。
ただ、そのときおれの一人称が一時的に「わたし」になっていた。
社会化の途上で、塩梅というものがわかってなかったのだ。
「なにそれ?」と言われた。
喋っているうちに自分の話が次々と飛ぶことに気がついた。
社会化途中のわたしは詫びた「自分がいかにとりとめなく話しているか」について。
すると友達は
「え、おおしまのはなし飛びまくるところ、ぼくけっこう好きなんやけど」
と言われた。
いわれた。
会社は3ヶ月で辞めた。糞野郎が止めようとしてきた。面白いことに。
「わたしのことは好きにならなくていい、仕事のことは嫌いにならないでくれ」
とか言ってた。そもそも仕事は嫌いじゃなかった。嫌いじゃなかったが、辞めたかった。上手く喋れなかったし、理屈も立ってなかったし、まとまってなかったけど。
まぁ、結論だけはあって、辞めた。
その後、2週間ほどだらだらして、アルバイトに応募して、3ヶ月程働いて、今のアルバイト先に応募した。
アルバイト先は、一つ前のも、(もちろん)今のところも、はじめの会社よりずっといい。
喋るのはずっと、今でもヘタクソだが、俺は愛されていると思うし、俺は愛している。これは結論ではない。
24歳⑤
TITLE: ああ
CATEGORY: 思ったこと
DATE: 02/04/2015 17:29:10
自分語りで始まり自分語りで終わる。
いつも考えているのは自分のことだからだ。
同じ話を繰り返す。構成を考えない。
頭を使ってないからだ。
前者は今はとにかくソレ以外のことを考えることが難しいから、仕方ないとして、
じつは後者はあんまり良くない。
文章を書く時に頭を使わないと、吐き出すだけのセラピーみたいになって、今の自分には効果があるが、
読者(もちろん未来の自分が一番読むだろうに、自分の一番の被害者は、自分)にとっては本当にどうでもいいものだ。
(もう4、5年、日記を書いているのですが、読み返した時に一番感心するのは間違いなく、誰かの引用、または他者と喧嘩や、自分が怒りを感じたときの、相手の言い分などのメモです。自分の濃度が濃い文章はあまり読んでよかった感じがしません。同じ内容の確認だからです。私は、人のブログを検索して読むことはあまりしませんが、気になるミュージシャンの情報など、よくブログから知ります。そういう記事は話半分に聞くにしろ、半分も聞けるなんて大したものだと思います! 論文でも引用がない論文は深みに書ける、面白くない。引用が減っているのは他者の言い分に思いを馳せる精神的体力(?)の減退。明確に怠慢なのです。まぁ、怠慢自体は仕方ないのですが。)
だから少しずつでも、書き直し書き直ししたり。頭を使って構成考えたりすればいいんだけれどなぁ。
と早くも自分語り。
時間を使って取り組まなきゃ改善するかはわからないよね。
〜〜〜
今日ようやく、自分がヤヴァイことに気づいた。
もちろんずっとヤヴァかったが、今話題にしたいのは年末〜今日までの間の自分に見られたヤバさである。
さむい、エアコンをつけよう。
俺は買い物中毒だった。
対象は主に、本、DVD、CDである。
「本」
年明けから、百冊以上は買った気がする。数えてないけど、雑誌入れたら多分超えてる。
いや、どう考えても余裕で超えてる。まじ捨てたい。捨てたくないけど、物理的になんか疲れる。
積ん読はいいんだ。それはいい。
積んだ、本はいずれ読む。今もむしろ買った本ではなく、積んである本を多く読む。
問題は、買うこと自体が目的化していることだ。
私の趣味は「読書」でも「映画・音楽鑑賞」でもなく、「買い物」と来る方が、今の私にはぐっと本質をついているだろう。
そして買い物は頭を使う趣味ではない。
どう安く買うか、みたいなところも含めて、俺はアホになっていた。
俺は気が狂っていた。買わなければ一番安いのに。
と、まぁ、今でも、欲しいものは惜しまずに買えばいいとは思うのだけれど、
年明けからこの方俺はバランスを欠いていた。
原因㈰
「前年の秋〜冬に強化されたイデオロギー」
どこかで刷り込まれた
「本との出会いは一期一会!」
「大学生なら月に3万は本を買うべし!(たぶん、つーか、余裕で超えてる)」
「図書館に頼るな!」
「本とか、美術館のチケットとかは、プライスレス! 値段=価値ではない、から、高かろうが、安かろうが、手に入れたいものは手に入れらい内に手に入れとけ」
みたいな教訓群が、生物濃縮っていうか、他人からの影響のみならず、自分の中でも発酵してつねに自分を(正気になりそうになるたびに)再教育、洗脳していた。
原因㈪「BOOKOFF年始セール」
所沢にいたとき、年始年末は本半額セールというものがあった。ただでさえ、半額ぐらいで売っているブックオフの本がさらに半額になるのだ。私は狂った。10000円分くらい本を買って、「安い!」と叫んでは泡を吹いていた。誰か殴ってくれたらよかったのに。まぁ、それはそんな後悔してないんだけど。
そのうちBOOKOFFも多少、分別がつくようになったのか、年始のセールは「本なら全品半額!」セールから、「本なら全品20%引き」というなんともインパクトの弱いものになった。
当初私は「半額じゃねぇなら、買わ……ちょっとしか買わねぇよ!」という強気なものだったが、次第に私の方が分別を忘れ! 「今だ、今買わなくては、どうせ平常の価格に戻った時に俺は買う、そういう奴なんだ! じゃあ今買った方がオトクじゃん、20%も、オトクじゃん!」
と目の色を変えて、普段なら買わないようなものを買う。
原因㈫「ジャケ買いへの憧れ」また「感性からずれたものを買う」
よーするに、安いから、ついつい買う、そもそも定価でジュンク堂とかで完全に欲しいほんだけ狙い撃つ形じゃなくてBOOKOFFのような、中途半端なサイズの店のそこそこ興味あるコーナーをぐるりと覗いて、ちょっとでも物欲レーダーが刺激されたものをガンガンかごに入れることによって、
フツーなら買わない本を買う→知らない世界を知る→豊か! みたいな。
それなら、詳しい人に聞いて、おすすめの本とか、良書ばかり買えばいいのに。
誰かもいってたよね「良書」だけを読め、みたいな。「良友」ばかりと付き合え、みたいな。
バカだよな。「良友」と付き合うお前は何なんだ? 不良品だったら死にますか? 自分はいいのか!
〜〜〜〜
ここから6年後のおれ。
分裂気味の日記で、結局BOOKOFFで本を買いあさることを肯定しているのか否定しているのかわからない。だが、過去の散財は、今となってはどうでもいいことだ。
本については、今は狙い撃ちに切り替わった。
また、大人になって来たので、著者に印税が入ることの尊さがわかってきて、
BOOKOFFで欲しい本を見つけたときでも、その著者が自分にとって大事な人なら、まず新刊書店で在庫があるか確かめてから買う(こともある)
こないだはブレディみかこの本をBOOKOFFで見つけて、思わず、買おう!
と、棚に手を伸ばした瞬間、
「でもこれブレディみかこに印税入んねぇじゃん!」
と思い、思わず手を戻してしまった(どっちだよ)
それは池袋のBOOKOFFだったので、ジュンク堂本店に行った。でもなかったので結局戻ってBOOKOFFで買った。徒労のようなムーブだが、欲しくもないのに、安い本を探してうろつく労より、ヘルシーな気分だった。ジュンク堂では違うブレディみかこの本と、全然関係ない本(3000円もした)を買った。とにかくお金を著者に上げたかった心理かも。
しかしもちろんスティーブン・キングの本や村上春樹の本を買うときに「著者に印税が……!」とは思わない。なぜならあいつら金持ちじゃん。
金の臭いがしない著者、金の臭いが薄い出版社、下手したら貧乏の臭いがするジャンルの本にこそお金を使いたい。
しかし、そうはいっても、図書館も使っているし、古本屋も活用する。
ぼく自身貧乏だからだ。
金持ちになれればパトロンのようなムーヴができて、自分の大事な物を支えることできるのかもしれない。これはおそらく間違っていない。
だが、なれる気がしないなぁ。うーむ。気がするしないじゃなく、動くか動かないなのだろうけど、だらだらしているよ。
24歳④
TITLE: キッチンドランクの習性を身につけてから料理するのが楽しくてなりませぬ(嘘)
DATE: 02/02/2015 23:21:31
体がジャンク。ジャンクフードで震えが収まる。コンビニ探してうろつく。深海魚みたいな気分。
西武線がメーテルから妖怪ウォッチに。どんな疲れたときも妖怪をウォッチし続けるさだめ。
防衛ゲーム。参謀不在。つーかなんでオレが采配するんだ? 戦争。何回滅んでも繰り返し始められるのすごいゲーム。
「あんま恥ずかしくない」つってる時点で五十歩百歩よね。
家族とかが見る可能性を考えるとやっぱり恥ずかしい。うん、恥ずかしい。
「自作自演」第12回 江本純子×飴屋法水を観る。
芸劇のリーディング公演。
芝居の感想ってやっぱり書くの辛い。
これってリーガル?
内容とかどのくらい書いていいの? ダメじゃないの?
でも終わった公演なのだった、一夜きり。
江川純子はセクシー。ステキ。美人。可愛い。マーベラス。
つーか面白かった。他に言葉は必要? いらんよ。
何が感想だバカやろう。
2013年のユリイカ「女の子と性欲」特集?(うろおぼえ、たぶん、違う)に載ってた短編小説を本人がリーディング。演じ分け、かっけー音楽。どばっぱぱっぱ! みたいなジャズみたいなキャバレーみたいな。音楽。ざらざら喋る「っす」系女子とおしとやかセクシーたおやか系女子(で、皆ストリッパー)の演じ分け、セクシー。あ、おれ脳を使ってねぇなぁ。思った以上に小説を読んでたけど、巧みに早口だった。40分くらい?
飴屋法水
「ブルーシート」「教室」「じめん」などを。
すっごい男前なんだよ。まず。前から知ってたけど。変な声だろうなと思ってたら、やっぱり変な声なんだよ。高くて。でもすごい読み方だった。でもアフタートークの喋り方も全く同質だった。だから凄い人なんだと思う。
戯曲は、以前ジュンク堂のベンチで座り読みした。すごく充実した読書だった。充実しすぎて「教室」の方は読まなかった。
後半は口開けてみてたと思う。
すごく感性が摩耗してたと思って、最近観劇とかぶっちゃけどうでもよかったけど、
よかったんだ。感性が回復したと思った。「すり減ったら、磨けばいいじゃん?」みたいなことを素で思った。久々に爽やかな観劇態度だった。ひねくれてなかった。
それはきっと一緒に観た多くの人が感じているように、(首をかしげていた人もいたけれど)
オレはこの作品「わかる」「波長が合う!」ということで、波長が合いっぱなしで口も開いていた。
映像が映れば映像をバカみたいに観たし、骨壺が出たら骨壺だと思い、中の骨が出たら骨だと思って、じつはメレンゲで出来たクッキーだと聞いたらうまそうだと思った。オレはすごくバカになってて、すごく奴隷みたいな状態だった。でも頭は良くなったと思う。風通し的な部分が。
あと一緒に観てた人たちを愛おしく思った。
と、文章に書くと結構キてるけど(きもちわるさ的なものがここまで)割と崇高な感じの気持ちであったように思う。崇高さに浸っていたとも言える。
アフタートークは楽しんだ。内容はけっこう、身内感出てて、身のある話はなんもなかったけど、江本純子が可愛かった。可愛いなんて言うととても失礼だと思うけれど、アフタートークを観ながら、オレの妄想の江本純子の人格が出来上がりつつあった、それはエロい意味じゃなかった(べつにエロくてもいいと思うけど)なんだか愛しい人格だなと思った、オレの妄想の江本純子は。
座り方とか観てた、イスとか、置いてある水とかも凄い見た。楽しかった。内容はまぁほとんどない感じだったと思うけど、作品じゃないし、内容なんてどーでもいいよね、最近アフタートークよく見る、増えてるんだろうか? 楽しいよね。楽しいけどどーでもいいよね、どーでもいいところがいいよね。でもやっぱ身内同士だったら身内トークになるから、パーソナリティを愛せなかった場合(今回はもちろん大満足です)けっこう負の感情を募らせてみることもあるわ、そーいえば、楽しくないとき、ある!
今日は栄養のあるものを作ろう。もう24時が来るけれど、明日も生きていると信じて、味噌汁を茹でましょう!
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おそらく、芝居の感想は書けるならできる限り詳細に書いた方が良い。
と今の俺は思う。
なぜなら芝居は残らないから。
観劇を趣味にしている人がやっているように、開演前に舞台セットをスケッチして、役者、スタッフの名前なども記録して行く形が一番良いのだろうと思う。
しかし、第一に最近はあまり芝居を観ていない。
そのかわり、観た時はなるべく日記の方に感想を書くようにしている。
なぜWEBで書かないかと言うと、家にネットが繋がっていないので、WEBのブログを更新する時間があまりないこと(今は勤務先の昼休み)というのを言い訳になんとなくしていない。
もう一つの取るに足らない方の理由は心理的なもので、感想を書けば、当事者にその感想を見られる可能性があって怖い。というもの。
なぜ怖いのか? 嬉しいんじゃないか、当事者としては? かつて当事者であった感覚でいうとそう思う。だから、取るに足らない理由なのだ。
気にっている人を食事に誘わない理由が「恐怖」であることに似ている(コレは例で実際にそういうことが、……まぁ、しばしばあるけど)
だから、感想は書いた方が良い。
ウェブじゃないところに書くだけでも価値あることだが、ウェブに上げるのもまた違う価値があることである。